おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

顔がなくなった少年 (20世紀少年 第488回)

 第16集の34ページより。お面を貸せと言われた理由をサダキヨが尋ねたところ、フクベエは、今年の夏休みはずっと大阪の親戚のところから万博に通うことにするので、東京にいてはいけないんだと不条理なことを言い出した。サダキヨの目に憐みのような何かが浮かんだのをフクベエは見逃さない。

 「なんだよ、その目は。」とフクベエは言った。サダキヨは、顔を赤らめたまま目をそらしてしまう。まだ5年生になったばかり。時には一人でいるのも悪くはないと気付くには早すぎる年齢か。彼は遊び友達がほしくてほしくて、宇宙人にまで頼み込むことになるほどだったのだ。


 この場面はもう夏だから、サダキヨは転入してきてフクベエの同級生になっている。もしかしたら、望んで頼んだ転校だったのかもしれない。しかし、この展開の中でフクベエは、前の学校でイジメられて転校してきて、僕らの学校でもイジメられている気持ちの悪い奴なんだ、おまえはと言っている。これが人にものを頼む態度だろうか。

 さすがにサダキヨは、少し怒りを感じたような表情を浮かべている。ここで縁を切るかどうかの瀬戸際だったが、フクベエは、”ともだち”と呼んでいいと言ったものの、まだ友達じゃないと変なことを語り始める。さらに、僕がこの夏休みに東京にいることを隠し通すことができたら、「本当の友達」に認定するという。


 条件付きで、友達になってやるという提案。しかも、サダキヨの努力だけでは、どうしようもないものではないか。厳しい選択を迫られた彼だったが、一呼吸おいて「わかったよ、お面貸すよ」とフクベエの背中に言った。サダキヨの隷属の歴史が始まってしまったのだ。フクベエがお面を必要とする理由は、誰にも自分と悟られずに、漫画を買いに行くことであった。

 小学生時代の私が、夏休みの間、ずっと自宅に閉じ込められていたら、きっと気がおかしくなっただろうと思う。それを自らに課すとは、私には理解のできない心境である。漫画とプラモデルに囲まれた部屋に1か月以上も自発的に引きこもるとは、彼は後年「おたく」と呼ばれる人々の先駆者だったのかもしれないが、おたくだって外出して会話を交わすから「おたく」なのだ。


 はたして、さっそく天罰が下り、お面姿で外出したフクベエは、サダキヨの前の学校の生徒たち3人にサダキヨと勘違いされて、「いつもどおりアイス代よこせよ」と蹴飛ばされる暴力に遭ってしまう。しばし、転がったままだったフクベエは、ようやく立ち上がって歩き出す。ミンミンゼミの声が聞こえるばかり。

 バヤリーズ・オレンジの自動販売機が立っている。彼は「暑い、のどかわいた」と呟くだけだから、全額お金を取られてしまったのだろうか。ジジババの店にもバヤリーズ・オレンジの看板が貼ってあったが、自販機はないから違う場所だな。それに、ジジババの店はケンヂたちのたまり場だから、近寄ると危険なのだ。


 彼は自動販売機の横にあるガラス窓に映る自分の姿を見た。暑い。息が切れる。たまらず彼は、お面を外してしまった。窓ガラスに向かって「万博ばんざい」と心の中で叫び始めたのだが、間もなく彼は「ああああ」という悲鳴を上げ始めている。ガラス窓にうつる自分の顔には、目も鼻も口も耳も、眉や髪すらもない、完全無欠の「のっぺらぼう」であった。

 これは、どう考えたらよいのだろう。猛暑で頭が一時的に不調に陥ったと平凡に処理したいところだが、後の展開がそれを許さない。サダキヨが自分につけたあだ名、「顔のない少年」は、実はフクベエでもあったのだ。このため、この二人が偽造したオバケも、「顔がないのが一番怖いんだ」というフクベエの体験談に基づき、顔がないものになった。

 「顔がない」というのは、どういう意味なのか、ずいぶん考えたけれども、ちゃんとした答えも出せぬまま、今日は散らかったままで終わります。無念。



(この稿おわり)




ザリガニ (2012年9月17日撮影)



 







































































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