おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

ペルソナ (20世紀少年 第819回)

 2回続けて万丈目のヤケ酒に付き合うのも気が滅入りそうなので、少し話題を逸らします。心理学に関心のある方ならご存知のとおり、ユングに「ペルソナ」という概念がある。これがまた簡単なようでいて、なかなか分かりづらい。ペルソナとは、本来、役者がつける仮面のことだとユングは書いている由。

 先日、拝聴した精神科医の講演では、このペルソナについて「顔を使い分ける」というような表現における「顔」に当たるものだとのご説明があった。大抵の人は生活の場でいくつかの顔をごく自然に使い分けている。親として子として、上司として部下として、ご近所としてお客として等々。


 えこひいきを批判するとき、「人によって態度が違う」と言うのも、あれは被害者意識のなせる業であって、本来、会社や学校のように雑多な集団の上に立ってリーダーたる責任を負う人は、相手によって必要により態度が異なるのは当たり前のことである。

 ラテン語のペルソナは英語のパーソナリティーの語源だが、日本語で人格とかお人柄というとき既にプラスの価値が含まれていることが多いのは、顔の使い分けが上手くできる人を私たちは大人のあるべき姿と考えているからだろう。


 この顔の使い分けが下手な人は、人間関係が希薄な環境で育った可能性があるというお話があった。内面と外面が違うというのは往々にして誰より本人を傷つけ疲れさせるものだが、それをやらなければ世間を渡っていけない。

 八方美人はこの軋轢、葛藤から逃げている人である。また、私にも自覚があるのだが歳をとってくると頑固になるのは、もう気力体力がペルソナの多用に耐えられなくなってくるからだろうと思う。

 
 「20世紀少年」は仮面漫画でもある。”ともだち”の言動をみていると、ペルソナの使い分けを端から拒絶している男である。お面で表情を見せず、喋り方も大人のそれではない。とうぜん仮面の下の顔つきは死んでいるだろう。表情が見えないと感情も個性も伝わりにくい。

 おまけに見せたときでさえフクベエヅラは、どうってことない普通の人などと言われ、絵の上手い春さんでさえ車の振動の助けを借りて、ようやく似顔絵を完成させたほどだった。

 それまで多少は表情も豊かで口数もそれなりにあったフクベエ少年は、1970年の夏に万博事件、首切り坂の幽霊作戦の失敗、サダキヨの無断(?)の転校と惨事が続いて人格が崩れたかのようだ。彼の顔がこのころノッペラボウというペルソナ皆無のオバケに見え始めたのも、これと無縁ではあるまい。


 サダキヨ少年の場合は八方美人の正反対の人格であり、誰とも口をきかないし目も合わせないという不退転の決意をもってナショナルキッドのお面をかぶっている。キリコが少し強引にお面なんか取りなさいよと命じたので彼は機嫌を損ねている。関口先生の写真を見るまでは、彼は長じて素顔の先生になって以降も、顔のない少年のままだったのだ。

 それでは、もう一人のナショナルキッドの場合はどう考えるか。ジジババのババに処罰され、死刑宣告まで受けたからああなったのではない。その前からすでに彼はお面をつけているのだから、あの騒動で更にひねくれたかもしれないが、少なくともきっかけではない。

 反陽子ばくだんも同様で、万引き事件の前からの着想である。幼いころ余ほど酷な目に遭ったのだろうか。私の子供時代が祖父の急死と共に終わったのと同じように。これらの鬱屈の発散をケンヂは全部、一人で背負ったのか。

 
 間もなく該当の場面が出てくるが、お面だけでなく服装までサダキヨと一緒というのは、どちらかがマネしたからだとしか考えようがない。この二人のほうがフクベエとすり替わった”ともだち”の両者より、よほど双子的である。少しは親しいようだが、大親友という感じでもない。それなのに、なぜ同じ格好をしているのだろう。

 サダキヨはお面大王として復活したとき、再びナショナルキッドの仮面になっているので、余ほどこのマスクが気に入っているらしい。彼が本家で、もう一方がマネか。後者は中学時代までナショナルキッドだったことが分かっているが、その後どうやら例の目玉マスクに鞍替えし、死ぬまで離さなかった。お面を取ったら子供の遊びが終わってしまうとも言っていた。ナショナルキッドのまねのサダキヨのまねか。


 この男の場合は、お面そのものが唯一のペルソナなのだろうか。彼はすでに子供時代より、正体を知っていたと思われるフクベエや山根から、まともに相手にされていない感じがする。さもありなんと思う程に、人間味に欠けている。外面と内面が混乱したような状況というと、私は三島由紀夫を思い出す。彼が「仮面の告白」を書いたのは偶然でも何でもなく、頭の良い人だから自分の仮面がはがれなくなっているのを知っていたのだろう。

 ペルソナが社会人の特徴であるとしたら、ペルソナが少ない人は子供っぽいはずだ。そして人間関係が嫌いなのに、自意識を過剰なほどに持っていると、目立ちたがるし都合のよい「ともだち」も欲しがる。そんなのが同学年に何人もいて、しかも遊びの標的にされたケンヂは災難であった。上記の講演で聴いたところでは、えてしてパソナティー障害はターゲットを求め、その人に迷惑をかけるのを楽しむ傾向があるらしい。

 さて、そろそろスナックのロンドンに戻るとするか。晩年の万丈目は急ごしらえのシェルターの中で震えて過ごすほどに落ちぶれたが、死んでからはもっと落ちぶれている。「あそこまで行った」人間は、没落するときも速かった。転がる石のように落ちた。



(この稿おわり)






 Well we all have a face that we hide away forever.
 And we take them out and show ourselves when everyone has gone.
 Some are satin, some are steel, some are silk and some are leather.
 They're the faces of the stranger but we love to try them on.

             ”The Stranger”      Billy Joel









































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