おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

”ともだち”の成り立ち (20世紀少年 第482回)

 第16集の19ページ目、サダキヨは基地の中に入ろうとしたところ、先客がいるのに気付いて慌てて逃げようとしている。しかし、頭隠して尻隠さず、フクベエに「なんだ、あいつか」と気づかれてしまう。だが先客は、”よげんの書”を見つけて機嫌が良かったらしく、「こっち、来ない?」と招じ入れた。

 彼は珍しく正直に、自分もここのメンバーではないと言っている。決意も新たに両の拳を握りしめて入ってきたサダキヨは、ナショナル・キッドのお面を付けたままであり、フクベエは「気持ち悪い奴だな」と感じている。今は「きもい」と言うらしいな。

 うざったいが「うざい」になったのは遠い昔のことになった。先日はあるサイトへの「アクセス」に関するウェブのニュースで、「アクセ」というのを見た。今回のロンドン・オリンピックでは、出場した選手の何人かがオリンピックのことを「ごりん」と呼んでいた。言葉は退化する。このままでは、そのうち日常用語は全て三文字言葉になってしまうかもしれない。


 原っぱも秘密基地も、散々けなしたフクベエだったが、”よげんの書”は高く評価したようで、盛んに「すごい」を連発している。「内緒にするからさ。僕にも見せてよ。」とサダキヨは言った。この場面の最後まで、彼は何とかフクベエと友達になろうと必死である。まだ、人を見る目がなかった。先の話だが、オッチョを見直すまでに数十年もかかっている。

 フクベエは「いつも、お面かぶっているけど、とったら?」と言った。まだ同級生になっていないから、素顔を見たことがなかったらしい。サダキヨ少年の顔は、関口先生が保管していた写真で読者もおなじみである。ただし、その紅顔もここでは緊張し切っている。フクベエの感想は、「おもしろくもなんともない顔」であった。そんなことばかり考えているから、間もなく自分自身が「顔のない少年」になってしまうのだが、残念ながら死ぬまで彼には予知能力がなかった。


 サダキヨは勇気を振り絞るかのように、「友達になってくれる?」と訊いた。頼んだ。しかし、相手は心の中で「僕がお前なんかの友達になるわけないだろ」とバカにしていて反応がない。やむなく、「フクベエ君て呼んでもいいかな?」と続けているのだが、こちらはちゃんと返事が来て、「だめだ」とのことであった。

 フクベエは根拠のない万能感で盛り上がってしまっているのだ。僕なら、これよりずっとすごい、よげんの書を作れるという妄想に浸っている。サダキヨが調子を合わせるものだから、僕の予言はすべて的中する、僕の言った通りに世界はなる等々、どんどんエスカレートしていく。世界がそうなる前に撃ち殺されるのだけは想像できずに終わった。


 すっかりご満悦のフクベエは、「サダキヨ君、友達になってあげてもいいよ」と言った。サダキヨ君のうれしそうな顔。だが、その途端に相手は変なことを言い出している。  「ただし、二度と僕の名前を呼ぶな。僕はフクベエでもなければ、ハットリでもない」らしい。どういう発想だい? それから彼はこう続けている。「僕は、ただの”ともだち”だ」。1969年。

 大きな組織に勤めた経験のある方であれば誰もがご経験のことであるが、偉くなって役職に就くと、課長とか専務とか校長先生とか、これらは組織の内外で尊称としても使われるが、同時に機能や地位が重視されるようになる。その分だけ、個性はどうでもよくなってきて、名前のない中高年になっていく。


 フクベエは、ここに自分と友達になりたいと言ってくれた稀有の好意の持ち主に対して、一対一の対等の人間関係をいきなり拒み、上下関係を築こうとした。よせばいいのに、サダキヨの孤独はそれに従ってしまったのだ。味をしめたフクベエは、山根にも同じこと試し、巧みに”絶交”のスパイスまで効かせて成功するに至る。そして十年ほど経つと、何故か時代が彼の怪しげな言動を歓迎するようになってきたのだ。 

 ケンヂとオッチョは、自分たちが書いた”よげんの書”を盗み見た誰かが、それに沿って世界中で悪事を起こすたびに、自分たちの過去の遊びが原因だと自責の念にかられている。しかし、それのみならず、自分たちが作った秘密基地の中で、”ともだち”が成立したとは、想像だにしなかったであろう。全く迷惑な話です。




(この稿おわり)






両国は大相撲の町だ。祝・新横綱誕生。
(2012年9月8日撮影)































































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