ここのところ小欄では、サダキヨによる人殺しだの、高須の”絶交”未遂だのと、ろくな話題が続かなかったので、ここらで一休み。話題はちょっと前に戻って、第9巻に出てくるウッドストックのフェスティバル。
なぜ今ごろになってかというと、ようやくウッドストックの映画(原題は"woodstock 3 days of peace and music")のブルー・レイをレンタルできて、やっとこさ二日がかりで長尺のフィルムを観おわったからです。
「20世紀少年」には、ウッドストックの話題が何回か出てくる。そのうち一番大事な話はまだまだ先のことで、ともだち暦3年のカンナとコンチの活躍場面なのだが、この話はそのときまで措いておこう。ウッドストックの初出は、かなり古くて第1巻の66ページ、中村の兄ちゃんから聞いた話を、オッチョが秘密基地の仲間に説明している場面です。
オッチョが仕入れた情報とは、「この夏アメリカですごいことが起きた」のであり、「音楽祭に50万近くが集まった」という一件である。これに対してケンヂは、昔すでに話題にしたが「そんなに集まって何するんだ。盆踊りか?」という、実際に集まった一部観客の態度からすると、あながち的外れでもないような感じもするが、ともあれ鈍い反応を示している。
対するオッチョは「違う」と言下に否定し、「ロックだよ。愛と平和だ。」と述べ、ケンヂは「よくわかんないけど、音楽祭に50万人か」と感じ入っている様子。のちにこれは彼の夢になり、スパイダーさんに皮肉られたり、幼いカンナに教えてあげたりすることになる。そして実演する日もやがて来る。
ちなみに、オッチョは66ページで「隣の中村の兄ちゃん」と言っている。少年時代のオッチョが団地に住んでいたことは、「21世紀少年」で本人が語っているが、第4巻に出てくる中村さんの部屋は、どう見ても木造住宅であって団地ではない。ご近所か。
ともあれ、一般に小学生のころは、兄貴や年上の親戚・友人が近くにいる奴のほうが成長が速い。中村の兄ちゃんがオッチョに、そして間接的にケンヂやコンチに与えた影響は大きい。正確にいうと、第1巻のシーンではウッドストックという固有名詞は出て来ない。
第4巻、その名も「愛と平和」という第4話に、再び出てくる中村のお兄ちゃんとオッチョ少年の会話の中に初登場する。このときは英語で「ラブ&ピース」を教わったオッチョは、喧嘩の加勢を頼みに来たヨシツネとマルオに早速、これを使って決闘は古いと一旦は断っている。
このあと彼はラブ&ピースを「一時中止」して決闘の場に馳せ参じているわけだが、この「ヤン坊マー坊」対「秘密基地」の戦いの日は1969年であり、ケンヂの回想によれば、「あの夏のおわり」であった。ウッドストック・フェスティバルの直後に当たる。
ともあれ、この愛と平和の象徴的な催し物とされるのがウッドストックである。観客数については、オッチョの証言「50万人近く」のほかに、第9巻第3話でケンヂがカンナに語るところによれば、「40万人以上」が集まったという。
人数の実態は不明で、映画でも10万とか20万とか、40万とか50万とか、地域住民のおじさんによると「100万人は来たね」ということなので、客数にこだわっても仕方がない。
日本語版のウィキペディアは、ウッドストックについての記載振りがちょっと頼りない感じなので、本家本元の英語版 Wikipedia に拠ろう。まず、この音楽祭の正式名は「Woodstock Music & Art Fair」だったらしい。
主催者は当初、1万人規模を考えていたらしい。だが想定外の人数が集まり、会場のフェンスが壊されてチケットのない客まで、ぞろぞろ会場内に入ってきてしまった。人数が不明なのは、この理由による。
映画の日本語タイトルは「ウッドストック 愛と平和と音楽の3日間」になっているが、英語の原題には先に触れたように、ピースは入っているがラブはない。中村の兄ちゃんほか日本人は「愛と平和」がお好きなようだが、当時のアメリカの若者にとって、愛よりも平和のほうが深刻な課題であったろうと思う。
ウッドストックの前年にあたる1968年、アメリカ全土で激しい学生運動が燎原の火のように広がった。私は機会があって、それを詳細に記録した本を読んだことがある。日本の学生運動のように火炎瓶を投げているような生易しいものではない。大学ごとに銃撃戦が行われ、そのたびごとに五人、十人という単位で学生が死んでいる。
この背景には、60年代半ばに泥沼化し始めたベトナム戦争がある。「Don't trust anyone over thirty」、三十超えた奴を信じるなという当時のスローガンは、単なる若者の反骨精神ではなく、徴兵と密接な関係があると聞いたことがある。当時のアメリカの徴兵制度や、ベトナム戦時下の徴兵の実態を知らないが、普通、三十超えれば老兵と呼ばれよう。
ここには、召集されるか否かという深刻な世代間の対立がある。映画で観た感じでは、ウッドストックに集まった観客のほとんど全ては十代、二十代の若者だろう。学生運動で多数の死者を出したアメリカの若者は、第4巻第72ページの中村のお兄ちゃんによると、「ベトナム戦争、反対するのに、闘争しちゃあ意味ないのよね」という結論を出したらしい。
誰だって意味不明の戦争で死にたくはないから、彼らが反対するのは当然である。アメリカは北ベトナムに宣戦布告していない。パール・ハーバーを忘れたのだろう。
出典が分からないので、頼りない記憶力のみに拠って書くが、ジョン・レノンがどこかのインタビューに応えて、「30歳になったときは、本当にホッとした。これで戦争に行かなくて済むから。」という趣旨の発言をしていたように思う(どなたか、出典をご存じの方は教えてください)。念のため、イギリス軍もベトナムに参戦しています。
ジョンが「平和を我等に」を歌ったのは、ウッドストックと同じ1969年だから、1940年生まれの彼は29歳になる年である。「ジョンの魂」と訳されたソロ・アルバムの発表は翌1970年である。このころの彼の歌詞や言動は、極めてラディカルであり、決してピースフルなものではない。
それが、三十超えてからはイマジン風に変わった。40年近く彼のファンをやっている者の実感として、この変化が彼の年齢と関係しているのは間違いないと思う。信用するなと言っていたほうから、言われるほうに移ってしまったのである。日本人のファンには愛と平和のジョン・レノンが好かれるようだが、それはそれで自由である。
ケンヂの表現を借りれば「愛と平和の祭典」、ウッドストック・フェスティバルは1969年8月のお盆のころ、ニューヨーク州で3日間にわたり開催された。4年生のケンヂたちが「よげんの書」を作った夏休み。
アポロ11号が人類を初めて月に運んだ日から、約1か月後のことである。私自身は、いつごろウッドストックのことを知ったのか、はっきりした記憶がない。
ただし、1970年代前半の中学生のころ、チャーリー・ブラウンでお馴染みのピーナツ・ブックを読んでいて、逆さまになって飛ぶ鳥の名がウッドストックであることを知ったとき、あのコンサートから取った名前だなと思った覚えがあるので、日本の子供にもよく知られた出来事だったのだ。
予定では3日間だったが、正確には大雨による中断などで日程が遅れ、最終日は日付が変わってしまい足かけ4日になった。出演したバンドや歌手は32組。映画はそのうち、わずか10組前後の出演者しか写していないが、これは仕方がないな。
おかげで、私の好きなザ・バンド、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、グレイトフル・デッドなどが省かれている。他方で、郊外の緑豊かな光景や、近所の人たち、裏方の連中、多種多様な観客の言動が、あれこれ楽しく盛り込まれていて賑やかな作品になっている。
現場では出産まであった。ウッドストックに行ったと主張するアメリカ人は、実際にウッドストックに行った人の何倍もいるらしいが、何よりそれがこのフェスティバルの歴史的評価を物語っている。
(つづく)
ピッピーといえば髪に花飾りであった(2012年3月29日撮影)