おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

神様と天才少女の邂逅     (20世紀少年 第227回)

 コイズミ初登場の姿は、第7巻80ページ目の下段に描かれているのだが、これは何と形容したらよいのだろうか。「尻姿」か...。スピリッツに限らず、ビッグ・コミックのシリーズは読者層として大人を想定しているので、全作品がそうではないが、ときおり性や色気にまつわる描写が出てくる。

 「20世紀少年」も斯様な読者サービスの提供と無縁ではなく、これまでその役柄はもっぱらカンナと敷島教授の娘が担当してきたのだが、これからはコイズミがその重責を担うことになる。

 もっとも、私としては日活ロマンポルノ的な成人映画のポスター群が気に入っているのだが、あまり詳しく論ずると、アカウントごと「はてな」に削除されるおそれがあるので、詳細なコメントは差し控えさせていただく。


 しかし、残念ながらコイズミが第一線で活躍する期間はそれほど長くない。この作品全体の時代設定は、先述のように第1期が1997年、第2期が2014年から2015年、第3期が”ともだち暦”3年で、それに少年時代の回想やバーチャル・リアリティー等が絡むという構成になっている。

 コイズミは第1期には出てこないし、以下は私の印象だが、彼女は第3期には地味な脇役に回る(「21世紀少年」の印象的なエピローグを除けば)。逆に、第2期には、回想シーンを除き、ケンヂが全く出てこない。

 記憶する限り、物語の中において(バーチャル・リアリティーを除き)、この2名は完全に摺れ違いで、一度も対面していないのではないだろうか。そういえば、万博会場でのウッドストック再現のとき、神様とコイズミは何処で何をしていたのだろう。

 ケンヂとコイズミには、共通点が少なくない。開放的な性格と旺盛な行動力、ときどきマヌケ面、運命に翻弄されるときの巻き込まれ感、その「バカ」さ加減が周囲に愛されるコメディアンであること。ついでに相違点を挙げれば、漫才でいうとケンヂは典型的なボケ役であるが、コイズミは神様やヨシツネ相手にツッコミ役も多い。


 コイズミは果敢にもバンドの追っかけと自由研究の両立を図り、「世紀の悪魔、テロリストのケンヂ」について調べるべく、”ともだち”平和祈念館を訪れる。だが、”ともだち”の華々しい業績の数々が展示されているばかりで、目的を果たすことができない。

 彼女は欠伸をしながら、「だいたい、ケンヂって生きてんの? 死んでんの?」と自問しているのだが(のちに神様にも同じ質問をしている)、この発言はなかなか興味深いな。自由研究に選んだ以上、コイズミは教科書を読んだであろう。ケンヂが死んだとは書かれていないのだろうか。もちろん、死体が発見されるはずもないのだが、では、どのように扱われているのだろう。


 第8巻でコイズミは、”ともだちランド”送りになる。テロリストの紹介があり、通称オッチョは懲役300年の刑、通称マルオと通称ヨシツネは死亡確認とあるが、実際にはオッチョはとうに勝手に娑婆に帰還済み。マルオとヨシツネも死んでいない。これでは、”ともだち”が「この世から悪魔を葬り去った」というケンヂ紹介の口上も信用できまい。

 大爆発の爆心地にいたのは間違いないのだから、木端微塵になったと判断したのか? これも追い追い考えながら読み進めます。ともあれ、コイズミが歩く先には、かつてカンナと蝶野刑事も偶然出会ったモニュメントがあり、その前で一人の老人がラーメンを食べている。「MARS」の帽子をかぶった神様であった。


 カンナが空のドンブリを見つけた夜は、ケンヂおじさんの誕生日だった。その時から、それほど日は経っていないはずなので、神様は頻繁にここでラーメンをいただく食生活なのだろうか? 当然ながらコイズミは不審に思い、「ねえ、おじいさん。なんでこんなとこでラーメン食べてんの?」と訊いている。

 これに対する神様の返答は、「ケンヂの好物だったからな」であった。無造作というほかない。仮に声をかけてきた人間が”ともだち”側の者であったなら、漫画を書いただけで刑務所入りのご時世、神様も海ほたる行きは免れまい。だが、そこは炯眼の神様、相手が人畜無害であることくらい、とうに背中越しに見抜いていたのであろう。

 神様は、例えばスサノオノミコトやウォーデンが全知全能の神ではなかったように、全知全能ではない。彼はケンヂの死を疑っていないし、この人懐こい女子生徒がボーリングの天才であることも見抜けなかった。ただし、この二点は、後に良い意味で裏切られることになるからご安心ください、神様。


(この稿おわり)


 

最近はボーリング場の看板も洒落ているのだ。
(2011年12月10日、皆既月食中の池袋にて)