おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

サダキヨの離反    (20世紀少年 第284回)

 サダキヨの人生最大の疑問は、自分が「いい者」なのか「悪者」なのかという難題であった。このハムレット的な自問自答は、遅くとも2002年にモンちゃんを撲殺したときには始まっており、ともだち暦3年まで延々と続く。山根はキリコにより蒙を開かれたのだが、サダキヨは一人で悩み続けている。

 ”ともだち”の言いなりだった彼が、「これでいいのだ」と思えなくなったきっかけの一つは、後に彼が語るように、新宿の教会でカンナとオッチョを見たときである。そして、そのあと間もなく、自ら志願してカンナとコイズミの高校に赴任してきたとき、彼には相当の覚悟ができていたのだと思う。


 コイズミのことも、かなり知っている。博物館長の閑職に追いやられただけではないらしく、ある程度の情報は得ているのだ。忍者ハットリくんのお面を付けたまま、コイズミに対して、バーチャル・アトラクションで僕のお面をはいで、その下の顔を見ただろうと問いただしている。

 また、「僕が”ともだち”だと思うかい?」という質問と、「”2000年血の大みそか”を引き起こしたのは僕だと思うかい?」という質問を並べているということは、コイズミが血の大みそかの真相を知っていることを彼が知っており、コイズミに対しては、”ともだち”の秘密を話しても構わないと、彼が考えていることが前提になっているはずだ。


 コイズミはここでも中高年との会話の「噛み合わなさ」で苦労している。教師はグルグルうずまきのお面をつけて登場するし、どこにいるか分からない「お母さん」を怒鳴り散らし続けるし、グリーンピースを押し付けられるし(この美味しそうなオムレツとシュウマイは、サダキヨが作ったのだろうか?)、いい者か悪者か、あっち側かこっち側か、しんよげんの書を知っているか等々、訳の分からない質問を浴びせられるし。

 幼かったころの私は、大河ドラマの「源義経」や「竜馬がゆく」を観ながら、新たな登場人物が出てくると「これは、いい軍か、悪い軍か?」という質問をして家族を困らせていた。そのたびに、良いも悪いもない、というのが親の返事であったが、要するに当方としては、主人公が正義であり、その敵か味方か(あっち側かこっち側か)を知りたかっただけだ。サダキヨも同様で、ゾロアスター教的な善悪二元論なのである。


 電話が架かってきた。校長からで、B組の小泉響子の所在確認であった。サダキヨは知らないふりをしているから、すでに知りすぎたコイズミを助けようとしていることが分かる。しかし、コイズミが受話器をひったくって校長に助けを求めてしまって万事休す。あっち側に行くか、こっち側に留まるか、この場で決めなければならなくなった。

 しかし、歩く優柔不断ともいうべきサダキヨの、この時の決断と実行は迅速なものだった。長嶋のサイン入りバット、本物ならば国宝級だが、それで「お母さん」こと定期安全確認用のコンピュータを叩き壊してしまう。これでようやく、一応だが、「僕はいい者だ。」と言えた。自ら退路を断った。


 サダキヨはコイズミに接触した理由を明らかにする。すなわち、「遠藤カンナに会わせてくれ」という依頼であった。担任でない生徒に対して、担任の生徒に会わせろというのも妙な注文だが、爆弾娘がすんなり会ってくれるか、自分の話を聞いてくれるか自信がなかっただろうのか。もっとも明日からは学校には出勤できないのだから、カンナの行動を探っていたコイズミなら、バイト先などが分かるというものだ。

 コイズミが「なんで?」と訊いたところ、サダキヨは「”せいぼ”が”こうりん”する」と言った。13番とオッチョは、この一節を知っているが、コイズミには何のことか分からない。


 それどころか、サダキヨによれば校長とドリームナビゲーターはつながっており、間もなく彼女を連行しにくると物騒なことをいう。そして、そんな話をしているうちに、早くもお迎えが来てしまったのだ。

 ともあれ、これでサダキヨは、自分とコイズミが同志になったと認識したようで、急に饒舌になる。コイズミも聴き手として優れており、傾聴も共感もできるから、目指せば立派なセラピストになれるだろう。おかげで読者は大量の情報を、サダキヨの語りから入手することができる。その前に、博物館から逃げ出さなくてはいけない。




(この稿おわり)




シュウマイを食べ損ね、山下公園で握り飯を食った日の氷川丸
(2012年2月11日撮影)