おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

ボーリングの夢    (20世紀少年 第228回)

 昨年、亡くなられた柳ジョージさんが率いた「柳ジョージ&レイニーウッド」は、私が高校・大学生だった1980年前後の日本における最高のロック・バンドだったと今も信じている。解散ツアーでは、当時住んでいた京都で野外コンサートがあり、参加して楽しんだものだ。彼らの作品の一つに、「アフリカの夢」というのがあり、私も、幼いころの息子もこの歌が好きであった。

 南回りの船でアフリカに行くのが夢だという男を歌ったものだ。男は冬の長い街の出身で、しわくちゃの象の写真を持ち歩き、酔うと相手かまわず一緒に行こうと絡む。男が街から姿を消し、しばらくしてから「俺」に男からの葉書が届く。「拝啓 おいらはついに、アフリカに辿り着いた」と。だが消印は隣町。やがて男は港から海に落ちて死ぬ。


 夢という言葉には、大別して二つの意味がある。広辞苑風に言うと、一つは「睡眠中に持つ幻覚」であり、もう一つは「空想的な願望」である。英語も同じで、キング牧師の「I have a dream.」という名演説の冒頭は後者だ(録音が残っています。機会があったら是非、聴いてください)。

 日英の両言語において、夢が同様の二義性を持っているのは、偶然ではあるまい。一人で生きて行くことができない私たちは、職場・学校・家庭などでの社会生活において、実に多種多様の制約を受けて暮らしている。法律や道徳、利害関係、力関係などなど。この煩わしさに、私たちはほとんど無意識で耐えながら生きている。

 
 しかし、寝ている間に見る夢の中では、私たちは現実の社会のルールや人間関係から解放されている。精神分析が夢を重要視するのは、本人さえ意識していない「本音」が夢の中に出てくるという理論に拠る。また、寝ている間は「腹が減った」とか「寒い」というような肉体的な雑念に困らされることもほとんどない。

 そして、もう一つの「空想的な願望」についても、「宝くじで2億円、当たったらどうしよう」などと白昼夢にふけっているときや、酔っ払って「アフリカに行きたい」と願うとき、しばしの間、私たちは世間の束縛から逃れて、空想を自由に楽しむことができる。

 だから「夢」という言葉は、実社会でも、あるいは小説や音楽でも、肯定的な価値のある言葉として頻出する。英語は日本語よりも徹底しており、悪夢はナイトメアであって、ドリームではない。

 第2巻で”ともだち”は、「宇宙の意志」は、「私に夢を実現するように言っているんだ」と放言し、その「夢」とは「世界征服」だと述べて薄ら笑いをしているが、これは夢というより病的な妄想であって、精神医学の領域に属する。


 ところが、神様の場合、「睡眠中に持つ幻覚」である夢の多くは、冷や汗を浮かべて跳ね起きるほどの悪夢であり、「空想的な願望」であるボーリング・ブームの再来は、いつまでたっても来ない。コイズミがケンヂの生死を問うたとき、神様がボーリングに例えて話しているのは、彼の切実な願いが無意識に現れたものかもしれない。

 ちなみに、この球技は正確には「ボウリング」と表記するらしい。昔は「ボーリング」だったような覚えがあるが、掘削の「ボーリング」と区別したいからかな。確かに英単語の「bowling」の本来の発音は、「ボウリング」のほうが近い。われわれ日本人は、結局ボーリングと呼んでいるけれど。

 第7巻では神様が「ボーリング」と言っているので、小欄もそれに合わせました。もっとも、すでに第1巻の175ページには「ボウリング場建設予定地」という看板が出てくるし、後にバーチャル・アトラクションや、ともだち暦3年に出てくる神様は「ボウリング」と呼んでいる。ここでは、どっちでも正しいのだ。


 血の大みそかの夜にケンヂが置かれた状況は、ボーリングの用語でいうと「スネーク・アイ」、つまり7ピンと10ピンが残されたスプリットであったと神様は言う(ちなみに、第2巻では「ビッグ2」とも呼んでいる)。

 こうなると、普通はスペアを諦めて片方だけ取りに行くのだが、ケンヂはその両方を取らなければ逆転勝ちは無かった。スペアを取るか、ガターに終わるか、そのギリギリの位置にケンヂはボールを転がした。結果はガターであった。


 難解な例え話である。ここでのスペアとは、すなわち、倒すべき2本のピンとは、おそらく、「ケンヂの生還」と、「ともだちの死」であろう。相手を倒さなければ、自分はもちろん、地球の破滅となれば逆転勝ちを狙うしかない。しかし、その冒険の結果、”ともだち”は生き延びてして栄え、ケンヂは死んだと神様は宣託を下しているのだろう。

 第2巻に初登場したときの神様は、ホームレスのおじさんたちに向かって、「ストライクとガターの違いは、たかだかそんなもんだ」と語っているのだが、ケンヂにとって、このガターとスペアの違いは、「そんなもん」どころではなかったのだ。

 コイズミの表情からして、彼女はケンヂの生死についての回答を得たことを知り、そして、「おじいさん」の深い悲しみに共感している。神様は「いいゲームだったよ」と笑顔で泣いている。コイズミはこの老人が、本当の詳しい事情を知っているという確信を得た。とんでもない自由研究が始まったのだ。


(この稿おわり)


沖縄那覇の空港ロビーにて(2011年7月17日)