おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

信念はすべてを克服するのか    (20世紀少年 第215回)

 第7巻の第2話「空気」は、前半が小学校時代のオッチョの思い出話、後半は2014年のショーグンと角田氏の脱出行の様子である。ショーグンはああ見えて、けっこう昔話のお喋りが好きな人なので、彼の口から子供時代のエピソードをいろいろ聴けるのがありがたい。

 ショーグンを支えているのは、未来の夢とか希望とかいったものではなく、過去の出来事である。例えば、老師の教えであり、翔太君への思いであり、この時点では3歳のころの思い出しかないカンナであり、そして何より小学校時代のケンヂたちとの会話や遊びの数々。特にケンヂの言動。


 めずらしく小学校のプールが出てくる。年号が記されていないので学年が分からないのだが、映画「大脱走」を話題にしている1971年よりも、やや顔つきが幼い感じがする。それに先生は、泳げない「赤帽」の者は、12メートル泳ぐと「白帽」になれると言っているが、12メートルでは高学年の目標とはいえまい。

 ケンヂは、すでに水難の話が第2巻で出ているとおり、泳げないので赤帽である。先生によれば、25メートル泳ぐと赤線が増えるのだが、まだ赤い線が帽子に入っていないのはマルオとコンチ、1本獲得がヨシツネとケロヨン、2本あるのがオッチョとモンちゃんで、概ね少年たちのイメージどおりであろう。残念ながらフクベエとユキジが見当たらない。


 女子の一人が先生に言いつけている内容は、遠藤くんと落合くんが水に潜ったまま浮かんでこないという、先生にとっては人命に関わる一大事かと思われるものであった。ところが周囲の男子たちは、いい加減にしろよーなどと、てんで暢気であり、要するに二人は水中で我慢比べをしているのであった。

 マルオが、2分以上も潜ったままだと言っている。私は元水泳部であり、去年の健康診断では看護師さんに、「肺活量がすいぶん大きい」と珍しく誉めてもらって嬉しいのだが、その私でも1分間ほど、息を止めているだけでかなり苦しい(先ほど、やってみました)。小学校の低学年か中学年で、2分も潜っているというのは、どういう意地っぱりだろう。


 少年たちの先生への説明振りと、ショーグンの思い出話によれば、クワガタの採れる木と、ザリガニが採れる場所をどちらが先に見つけ、ジジババの当たりくじをどちらが先に当てたのかについて、まとめて決着を付けるための対決であるらしい。物欲と名誉欲だけで、両名2分超過とは大したものではないか。

 しかも、人間の体は意外と軽い。一般に人体の6割から7割は水分(子供はもっと高率)だそうだし、水より軽い脂肪分も含んでいる。したがって、肺いっぱいに息を吸い込んで潜ると、比重が水より小さいため水面に浮かんでしまう。これを避けるためには、海女さんのように下方向あるいは水平方向に泳ぐか、肺から空気を締めださなければならない。


 ケンヂとオッチョが、どうやってこの物理の法則を克服したのか、定かではない。潜水泳法なら、高校時代の私も50メートルは泳げたが、一箇所でホバリングするのは無理だし、そもそもケンヂは泳げないのだ。ともあれ神のみぞ知る手段が行使され、はたして勝ったのは、泳げない赤帽のケンヂであった。

 ショーグンは角田氏に、「あいつは水を怖がっていた。信念が、すべてを克服した。」と絶賛している。しかし、繰り返すが私の理解では、これは信念というよりも、クワガタおよびザリガニの採取権ならびに当たりくじ第1号の栄誉が欲しかっただけの執着心の問題であり、オッチョのような淡泊なお人は勝てない勝負であろう。煩悩比べなのだ。

 もちろん、男子はこれで正しい。女子が「バカねー、男子って」と呆れているが、それも正しい。


 ショーグンが続けて語る血の大みそかのケンヂの行動が、地球の平和を守るという信念に支えられたものだったという点についてまで、私はどうこう言わない。角田氏も意見を述べる状況ではなく、溺れそうになりながら必死に泳いでいるのだが、何と二人の目前に、陥没したトンネルの天井や壁が行く手を遮っているのが見えた。

 鉄筋がグニャリとひん曲がっている。コンクリートの分厚い壁が二つに割れている。戦後のわが国の日常生活で、こんな風景を観ることはまずあるまい。私もこの歳までそんな経験はなかった。去年の10月に被災地を訪れるまでは。すっかり諦めて力尽きた感じの角田氏であったが、この程度で引き返すショーグンではなかった。


(この稿おわり)



日暮里駅前より、スカイツリー遠景(2011年1月1日撮影)