おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

このスープだけは     (20世紀少年 187回)

 歌舞伎町ねーざん通りにある味自慢のラーメン屋「七龍」は、中国マフィアとタイマフィアの抗争に巻き込まれて、入口のガラス戸は全て破れ、店内にも損害が及んだ。第5巻146ページでは、心配そうなカンナが覗きこんで声を掛けてみると、白い割烹着の男が、「このスープだけは」と繰り返しながら、容器を抱きかかえて蹲っている。

 男は師匠から引き継いだラーメンのスープを守っていたのです。私の父方の祖父は木工職人で、小さな孫にも本物の大工道具をくれた。残念ながら祖父の急死や引越などで散逸してしまったが、七龍の店主は立派である。私はこういう職人気質というのが大好きなのだ。


 しかも、味が似ているのに気付いていたカンナが話を振ってみると、はたして彼は一番街商店街にあったラーメン屋、○龍(まるりゅう)の店主の弟子だった。○龍は第5巻の第3話に出てきた。注文の多い3歳児のカンナに愛想よく応じてくれたあのおじさんは、しかし、血の大みそかの夜、6人もの弟子とともに、細菌兵器の犠牲者になってしまった。

 しかし7人目の弟子だった彼が、スープを守って七龍を開いたのであった。両店はラーメンの丼の柄や形も、そっくりだ。カンナの話を聞いて彼も嬉しそうにしている。先ほどは別の客も同じように言ってくれたうえに、テイクアウトまでしてくれたのだという。下ごしらえができて、店主がカンナに注文を訊いた途端、招かれざる客が来た。


 「弾に当たらない女ってのは、アンタかい?」と無遠慮に尋ねながら店に入ってきたのは、バンコクの闇の帝王チャイポンであった。身体が震えている。いわゆる中気病みであろう。私が幼いころは、脳卒中のことを中気とか中風とか、ヨイヨイなどと呼んでいたのだ。加藤茶の物真似も人気だった。今あれと同じことをテレビでやったら大騒ぎだな。こういう点、日本人は不寛容になった。

 しかも中国側のボスまで来た。両巨頭はカンナを間に挟んで座り、カウンターに肩肘載せて、ものすごく偉そうにしている。カンナも負けておらず、「ニンニクたっぷり、ネギ大盛り、チャーシューおまけして」と注文のうえ、同じものをこの人たちにもと大盤振る舞い。3歳のときは「メンマ抜き」もあったのだが、彼女も成長したか。


 チャイポンと中国側のボス(名前はここでは出てこないが、王曉鋒)は、「日本のラーメンはあまり好かんが、確かに...」、「命がけで守ろうとしたのはわかる」と意見の一致をみた。人間、暖かい物をしっかり食べると、心が豊かになるものである。カンナの作戦勝ちだな。

 二人のボスは、ローマ法王の来日で警備が強化される前に、お互い勢力地図をはっきりさせようと張り切り過ぎたということで合意らしい。この場で、七龍休戦協定ともいうべき約束が成立した。王が先に帰り、チャイポンはカンナに、「俺は以前、タイのバンコクで、あんたとそっくりな目をした男に会ったことがある」と語りかける。

 「そいつも、あんたと同じように、自分には弾が当たらないと信じてたよ。」と老人らしい良い話をしてくれているのに、カンナはラーメンに夢中で無視。お互い、オッチョと知り合いだったとは、まさか夢にも思わなかったであろう。二人のボスは無視された替りに、どうやら代金は払っておらず、勝手に注文した廉でカンナの負担になったようだ。


 テイクアウトを頼んだカンナは、それを手にして或る施設へと向かう。ここでは名前が出ていないが、第7巻で小泉響子もここを訪れており、「”ともだち”平和祈念館」という名の場所であることが分かる。アイロンの底が反り返ったような、妙な形のモニュメントが立っている。その向こうに、例のともだちマークの巨大な絵。ここで血の大みそかに爆発があったらしい。

 カンナは「お誕生日おめでとう。ケンジおじちゃん。」と呟いている。ケンヂの誕生日は、後年、氷の女王となって武装蜂起を企てたカンナが、決起の日としてケンヂの誕生日である8月20日を選んでいるのだが、この第5巻のカンナたちは厚着をしていて、あきらかに寒い季節。地球の地軸の傾きに変化でもあったのだろうか。


 そんなことより、カンナが驚いているのは、すでに七龍のラーメン丼が置かれていたことであった。空になっている。なぜか使用前と使用後の割り箸2膳がある。ここで誰かが、テイクアウトのラーメンを、追憶のケンヂと共に食べていたのだろうか。

 このラーメン屋を知っているケンヂ関連の人物は、このあと二人しか出てこない。そのうちの一人、ユキジは、カンナに連れられてきているのが明らかなので除外すると、残るは、コイズミが来た時も同じ場所でラーメンを食していた神様である。

 彼はそのときはドンブリを返却しているのだが、この日は置きっぱなし。そこは神様、七龍で銃撃戦が始まるのを予知して近寄るのを避けたに違いない。第8話「記念碑」はここで終わり。碑に刻まれた感謝の辞は、”ともだち”の自己宣伝文句だから引用に値しない。ただし、カンナにとって文中の「あなた」は別の意味を持つ。


(この稿おわり)


晩秋の曇り空もなかなか雄大である。(2011年11月12日撮影)