おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

うすっぺらな都合のいい正義 (20世紀少年 第451回)

 仁谷神父たち中高年が薄暗い会議室で頭を抱えている頃、さすが若いだけあってカンナと蝶野刑事は、もっと積極的な行動に出ている。もっとも、例によって勇ましいのは遠藤カンナだけで、チョーチョはビビッたり、たまげたりしているばかりで終わる。伝説の刑事への道は、ロング・アンド・ワインディング・ロードになろう。

 第15巻の69ページ目。場所は歌舞伎町。左に高層ビル、右にカラオケ店などが見えることから(このあたりのカラオケには何回か参りました)、おそらく靖国通り沿いであろう。カンナと刑事を迎えたのは、タイと中国のマフィアのボスと、部下が構える拳銃2丁。チャイポンに、「その警察官は、私らを逮捕できるような器じゃないよ」と言われている。


 カンナは前年の新宿歌舞伎町教会で交わしたはずの約束、すなわち第10巻で合意に至った、協力してローマ法王を守るという盟約の履行を促しにきたのだ。しかし、案の上というか両ボスは話をはぐらかすばかりで容易に動きそうもないのをみて、カンナはドンキーの話題を持ち出している。

 この前、ある子と話をした。その子は疑問に思っていた。なぜ人は悪の道に入るのか。だれでも子供のころは正義の味方にあこがれていたはずなのに。王曉鋒の反応が良い。今度その子にあったら伝えてほしい。私らは別に自らを悪だとは思ってはいない。私らには私らの正義がある。


 この物語には、「正義」や「正義の味方」という言葉が何度も出てくる。正義とは抽象概念であり、一方で、正義の味方とは、人間なり宇宙人なり怪獣なり、その体現者である。ケンヂによれば「正義は死なないのだ」が、正義の味方は運悪く命を落とすことがある。では、正義とは何か。

 2年ほど前に、某公共放送が放映した「ハーバード白熱教室」が評判になって、DVDにもなったし「これからの『正義』の話をしよう」という本も出た。語り手はハーバード大学教授で政治哲学者のマイケル・サンデルさん。ところが、テレビでもDVDでも、この私は冒頭のあたりで早くも違和感を抱えて、くたびれた。なぜか。


 当該箇所の題材はベンサム功利主義で、例えば「一人を殺せば五人が助かる状況があったとしたら、あなたはその一人を殺すべきか」(これは本の添え書きからの引用)という問いが出てくる。DVDを観ると、天下のハーバード大学の学生たちは、次々に嬉々として自説を述べ立てている。

 こういう人たちは優秀な官僚や経営者になるだろうが、哲学者にはなれまい。ベンサムのことは詳しく知らないが、「やむをえないとき、どちらを殺すか」という「ソフィーの選択」のような課題は、生涯かけて悩み続けるべき問題であることを私は疑わない。それに私の理解によれば、正義の味方とは6人とも助けるべき存在である。どうも初めからボタンの掛け違いのようなものがあるので、再び広辞苑の世話になって整理します。


 辞書によると、正義には主に三つの意味があるらしい。①正しいすじみち。人がふみ行うべき正しい道(出典は「荀子」)。②正しい意義または注解(出典は「漢書」)。最後に、③(justice)社会全体の幸福を保障する秩序を実現し維持すること(以下、プラトンアリストテレスマルクスなど哲学者等による個別の見解は省略)。

 ②はちょっと別系統だな。①が、ケンヂたちの言う正義である。これも子供のころから私たちが体で覚えた言葉の一つだ。ウルトラマンは光の国から正義のために来た。正義の少年、バビル2世。

 含蓄があるのは「鉄人28号」の歌詞であろう。「あるときは正義の味方 あるときは悪の手先 善いも悪いもリモコン次第」。ケンヂ少年は巨大ロボットの造形に際して、鉄人28号と似た絵しか描けなかったのだが、外見のみならず欠点や行動ぶりまで似ていたとはね。


 辞書的な意味での上記③が、サンデル教授の説く「正義」であったのだ。「ハーバード白熱教室」とは受け狙いの邦題に過ぎず、DVDも本も英語の原題は、どシンプルに「Justice」なのであった。比べてみると、東洋の①は、個々人の生き方に直接かかわるものである。概ね、儒教の「義」と等しかろう。ポップさんがペーターに教えていた人のみち。

 一方で西洋の③は、社会秩序が対象らしい。「公正」と訳しても良いだろう。秩序の味方とか公正の味方というのは居るまい。おそらく、アメリカでスーパーマンバットマンは、「Justice」の味方という認識なり表現は、なされていないのではないか。ケンヂの表現を借りれば、「スーパーヒーロー」であろう。腹減った子供たちに焼き飯を食わせるのも人のみちだ。



 カンナは王曉鋒のまぜっ返しに対して、その子にはもう会えない、その子は正義のために死んだと応じた。そして、「あなた方みたいな、薄っぺらな都合のいい正義のためじゃなくて」と言い放っている。物語のいま現在、社会秩序は表面的には”ともだち”の遺産により、かろうじて保たれているかにみえる。しかし、実際は人のみちに反した行いが、これまでも行われ、これからも行われようとしているのだ。

 約束を守らないというのは、薄っぺらな都合のいい正義にすら反することであろう。王曉鋒は「まさかわれわれが自警団をやることになるとはね」と薄笑い。チャイポンは「いや、なかなかお似合いだよ」と結構、うれしそうにしている。かくして歌舞伎町からマフィアの姿が消え、万引きすら起こらず、警察官たちが「かえって不気味だな」と語り合うことになった。カンナはドンキーとの約束を果たした。両マフィアにとっては、恐ろしく高くつく決断になったが。




(この稿おわり)



やってみたいな、月面での宙返り(2012年7月31日撮影)


























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