かつての職場において、一橋大学の先生とお会いする用事ができた。若い女性の担当者がアポ取りをしてくれて、その日、私たちは新宿から中央線に乗って、はるばる国立市に出かけていった。しかし、同大の国立キャンパスには、指定された建物がなかった。発祥の地である千代田区の一ッ橋にあったのだ。
折角だから、やむなくわれわれは国立の紀伊国屋を視察し、業務とはおよそ無関係の舶来の食品などに感心してから帰途についた。ものすごく忙しい日々の中での出来事だったので、担当者は恐縮しきりであったが、妙齢の美女と半日を有効に過ごして良い保養になった。お相手の先生も嬉しそうに笑ってくださったので助かった。
この大学は明治時代に、商業を学ぶ高等教育機関として設立され、何回か名前が変っているが、戦前では東京商科大学という名前が有名であろう。戦後の新制で一橋大学に改称され、文系の総合大学になって今日に至っている。
同大OBである城山三郎さんは、名古屋生まれの奥様が一橋大学の名を知らなかったと、「そうか、もう君はいないのか」の中で書いてみえる。「男子の本懐」は政治の話ばかりではなく、浜口雄幸や井上準之助の私生活や家族の様子もいきいきと描かれているが、作者の家庭観も反映されているのではないかと思う。
一ツ橋は、前回触れたように平川に架けられた橋であるとともに、この辺りの地名でもあった。今も橋の北側に「一ッ橋河岸」という名の交差点があるから、魚市場もあったのか。ここ一帯は東大始め、日本の大学教育の発祥の地でもあった。神田の本屋街は、その門前町みたいなものとして発展したのであろう。
江戸時代後半の地図には、この橋のふもとに「一橋殿」という広大な屋敷が載っている。「天保御江戸大絵図」では、主な大名屋敷には家紋も載っているが、一橋殿は例の葵の御紋である。広辞苑によると、「一橋」とは、(1)この橋の名および周囲の地名、(2)三卿の一家、(3)東京商科大学の俗称、とあるが、この(2)です。
三卿とは御三家(尾張、紀伊、水戸)の次席で、一橋、田安、清水の三家。将軍本家の血筋が万一、途絶えた際のバック・アップ・システムである。御三家は、家康の息子たちが始祖となり、水戸家の2代目が黄門さま。本家は7代目で男系が断絶したため、紀伊家から吉宗が8代目として跡を継いだ。
吉宗は家康と同じ発想から三卿の制度を導入したが、7の倍数は縁起が良くないようで、14代目に再び宗家の男系が断絶し、一橋家から慶喜を迎えることになった。私の近所には徳川将軍の何人かが埋葬されている上野寛永寺があるが、大政奉還と無血開城の慶喜はここにも芝の増上寺にも埋めてもらえず、谷中霊園で眠っている。
この一橋殿の御屋敷跡のすぐ北に、巨大ロボットが出現した小学館の建物がある。ようやく物語に関連するところまでたどり着いた。
(この稿おわり)
文字どおり (2011年10月30日撮影)
これも文字どおり (同日撮影)