おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

小石川    (20世紀少年 第154回)

 私は葛飾北斎の大ファンであるが、彼の代表作「冨嶽三十六景」に、「礫川雪之旦」という作品がある。雪の積もった江戸の真ん中から富士を遠望する構図である。

 2005年の秋、近所にある上野の国立東京博物館で「北斎展」が開催された。これまで観た中で最高の美術展であり、あのときの感動と興奮は今も忘れられない。迷わず買った図録に、この浮世絵も収録されている。また、2007年の東京都江戸東京博物館で開かれた「北斎展」の図録にも載っている。

 
 これらの資料によると、「礫川雪之旦」は「こいしかわ ゆきのあした」と読み、通説によれば、文京区小石川にある伝通院というお寺あたりから眺めた景色であるそうだ。伝通院には行ったことがないが、徳川家康の実母が埋葬されているらしい。

 「礫川雪之旦」は雪景色だけに絵柄はシンプルなものだが、高台に設けられた宴席で遊ぶ男たち女たちや、女の一人が幼子のように指さす彼方の空を舞う三羽の鳥さんの姿が、のどかで大らかで素敵である。

 鳥はそれなりの大きさであるが、ハトやカラスのように群れなして同じ方向に飛んでおらず、どうやら旋回しているようなのでトンビであろう。


 この絵のタイトルであるが、「礫」は「つぶて」ではなく、意味は同じだが「こいし」と読ませ、すなわち今も地名に残る小石川のことだ。他方、今は残っていないが、江戸時代には実際に小石川という名前の川が流れていたことが当時の地図でも分かる。

 例えば私の手元には、「広重の大江戸名所百景散歩」(人文社)という、浮世絵と地図で江戸の風景を再現している優れた冊子があるのだが、これに載っている「東都近郊全図」(弘化元年、1844年)という地図にも、小石川が描き入れられている。沿岸の村々は、雑司ヶ谷、池袋、大塚、小日向、小石川とあるので、おおむね今の春日通りと同じ位置を流れていたらしい。

 
 この地図によると、小石川は「小石川御門」という外堀の門のところで、別の川と合流している。そちらの川は当時、江戸川や平川と呼ばれていた、今の神田川に相当する川で、江戸城の外堀は(今もそうだが)一部、天然の河川を利用していたのだ。

 鈴木理生著「江戸の川 東京の川」という記念碑的な名著がある。この本によると、今の神田川は、かつて飯田橋のあたりから南に曲がり、現在の日本橋川のあたりを流れていたらしい。徳川初期の治水事業により、神田川飯田橋からまっすぐ西を掘削して人工的に流路を変え、浅草橋のところで隅田川に落して現在に至る。


 その後、外堀と日本橋川は区分されて今日の姿になった。日本橋川は、内堀をかすめるように南東に流れ、お江戸日本橋の下や日銀のそばを流れて、河口近くの隅田川に注ぐ。

 ただし、その流路のほぼすべてにわたり、川の流れの真上を首都高の高架が走っているため、よほど詳しい地図でないと日本橋川はその存在すら気が付いてもらえないほどだ。気の毒に。

 前回の平川門の交差点から日本橋川までは、歩いて1分ほどの近距離にある。江戸時代、日本橋から中山道に向かって旅立った人々は、ここで再び日本橋川に出会って橋を渡る。この橋には今も昔も「一ッ橋」という名がついている。これについては次号に譲ろう。


(この稿おわり)



日本橋川。一ッ橋より下流を望む。天井は首都高。
(2011年10月30日撮影)



おまけ。川沿いに咲いていた菊。(同日撮影)