おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

俺の故郷じゃ、友達なんて言葉は何の意味もない。 (20世紀少年 第108回)

 今日で第108回。水滸伝の魔星の数と同じ。われらの煩悩の数と同じ。さて、長編の途中で、主役以外の人物を主人公にした中編、短編を挿入するという構成、いわゆる劇中劇が効果を挙げるかどうかは、作家の力量が試されるところだと思う。

 例えば、水滸伝では武松の物語が名高い。源氏物語では、空蝉や夕顔の巻に人気がある。「坂の上の雲」の場合は、日露戦争が好きな読者にとっては、正岡子規の物語がこれに当たるかと思う(私にとっては、子規は主人公の筆頭なのだが...)。広瀬もいるな。


 「20世紀少年」もこの手法が成功している好例で、何と言ってもオッチョのバンコクと海ほたるでの活躍は特筆に値する。キリコの流離譚もいい。短いが、ニタニ神父と法王のエピソードも印象的である。

 第3巻から第4巻にかけて、バンコクでのオッチョは、男女2人づつ計4名の救出に向かう。男二人は金儲けの仕事だが、女二人は、そうではない。最初の二人は無事だったが、続く二人は”ともだち”の関係者に殺された。かくしてオッチョも否応なく、20世紀少年の騒動に巻き込まれてしまうことになる。


 最初に助けた日本人旅行客の男の話は、すでに触れた。次は、裏街で春をひさぐ女たちの一人である。どうやら彼は、この種の女性たちにえらく人気があるようで、おそらくボディー・ガード的な役割を果たしてきたのだろう。その報酬がどのように払われてきたのかについて、詳述は避けるが言うまでもあるまい。

 第3巻の197ページ目は、二人の女がショーグンの取りっこをしている場面。彼はクイティアオ(米の粉でできた熱い麺類)を食べている。私が駐在したカンボジアでは、クイッティアと発音していたような覚えがあるが、ともあれ豚や鳥の断片などが載っているだけのシンプルなヌードルだが、朝飯に食べると極めて美味い。

 
 ところが、この食事中に、プーという女が「ヤクやって、屋上から飛び降りようとしている」という急報が入って、ショーグンは説得に赴いた。プーの訴えは「体売るのなんて、もういや」という切実なものだ。彼は、みんな悲しむぞと言うが、彼女は、誰も悲しまない、故郷には友達がいるが、ここには友達はいないと言い返す。

 続くオッチョのセリフは、そのまま引用したい。「俺には、故郷に友達なんか一人もいない。俺の故郷じゃ、友達なんて言葉は何の意味もない。」というものだ。この前半も後半も、とんでもない間違いであった。


 ともあれ、彼は「ここには友達がいっぱいいる。こんなところだからこそ」と続け、彼女も俺の友達だ、死んだら俺も悲しいと訴えて、自殺を翻意させている。彼がこういう心境にならざるを得なくなったエピソードは、後に出てくるので、そのときに語ろう。

 第3巻の最後は、道端でマンガ雑誌を売っているおじさんと、少年サンデー(名探偵コナンは、サンデーの連載だったのか)を見つけて懐かしんでいるショーグンの会話で終わる。

 例の左手マークがまだ使われているのを知って、ショーグンは売り手のおじさんに、「まだ、あるんだ、このマーク」と嬉しそうに見せている。笑顔がとても素敵だな。ようやく第3巻が終わった。



(この稿おわり)


お祭りの夜。 (2011年8月28日撮影)