おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

「あたいがお母ちゃんになる!」     (20世紀少年 第66回)

 伊予松山藩の秋山家は、中位の家格の武家だったが、幕末に藩が負け組に属したため、維新後、生活が苦しくなった。明治元年、5人目の子供が生まれてきたとき、両親は「いっそ、寺にでもやってしまおう」と諦めの相談をする。

 そこに十歳になる兄の「信さん」がきて、「あのな、お父さん。赤ン坊をお寺へやってはいけんぞな。おっつけウチが勉強してな、お豆腐ほどお金をこしらえてあげるぞな」と親を諫めて、思い止まらせた。

 信さんは勉強に励む傍ら、十代で風呂屋に就職し、風呂炊きの激務から番台までやって家計を助けたと、司馬遼太郎坂の上の雲」の冒頭に出て来る。

 信さん、長じて秋山好古と名乗り、日本陸軍の騎兵隊の父となる。難を逃れた「赤ン坊」は連合艦隊の参謀となり、司令官東郷平八郎に従って戦艦三笠の艦橋に立ち、日本海海戦を迎えることになる秋山真之


 キリコとケンヂのお母ちゃんは物事が上手く行かなくなるたびに、お父ちゃんの酒屋を潰してコンビニにしたとか、どこのだれか分からない男と赤ん坊を作って置いて行ったとか、バカ息子だと嘆いてはキリコやケンジを責めるのだが、商売や家計が苦しいのは、この姉弟のせいばかりではない。

 むしろ、第2回の140ページで当人が認めているとおり、お父ちゃんが素人のくせにアズキ相場に手を出して負け、それまで夫婦で稼いで貯めた金を「ケツの毛まで抜かれた」ほどに失ったのが、最大の原因であろう。そして間の悪いことに、そのとき、お母ちゃんのお腹には赤ちゃんがいた。これがケンヂだが、名前はまだない。
 
 お母ちゃんは夫に「お腹の子をどうすんのさ」と詰め寄るが、お父ちゃんが「しかたないだろ、今回は」という結論を出す。お母ちゃんも反論できない。


 両親の判断を「冷たい」、「安直」と言うは易し。だが、この時代(私が生まれた頃でもある)、高度経済成長の恩恵は、まだ充分には、庶民の暮らしにまで波及していなかった。

 私の親戚、家族の中でも、知っているだけで4人の母親が、二人目や三人目の子を堕している。そうしなければ暮らしが成り立たなかったのだから仕方がない。好きでそうしたわけではない。わが家の近所のお寺や街角に、何か所か水子地蔵が立っている。花が絶えない。


 さて、この遠藤家の会話は、1959年とある。お父ちゃんはランニングシャツで、お母ちゃんとキリコも夏服。キリコの向こう側にかけてあるカレンダーは31日まである。私が幼い当時のカレンダーは、週の初日が日曜日のものと月曜日のものが混在していたが(月曜日が多かったと記憶している)、1959年の夏ごろ、このいずれかに該当するのは7月のみ。

 人工妊娠中絶は、基本的に胎児の週の数が浅いうちでないとできない。将来のケンヂはおそらく、このときの会話から半年は経ってから生まれてきたはず。59年の終わりごろか、浦沢さんと同様、60年の早生まれだろう。8月生まれとは思えない。

 無事、生まれたのは、姉キリコが両親に向かって二度にわたり、「あたいがお母ちゃんになる」と言い切ったからである。その後の彼女のケンジに対する献身ぶりは、もうすでに詳しく見てきた。普通の姉のできることではない。お母ちゃんでなくては、なかなか、できないことだろう。信さんの生まれ変わりとも云うべき立派な娘である。


 もっとも、本物のお母ちゃんは、初めてこの話をケンヂに聞かせつつ、「まあ、あの子ってさ、犬や猫拾ってきても大事にしたし、責任感あったじゃない」という程度の認識である。拾われた犬や猫と同列の扱いを受けたケンヂは、出生の秘密に驚き、しばらくは久々の「あほヅラ」を見せたものの、キリコの真の愛を知ったのであった。

 これが、コンビニの本社担当に向かって、「この子は姉ちゃんの子だ。姉ちゃん帰ってくるまで俺が育てる。」と言い切る原動力になった。さすが強気の本社担当の大竹氏も、「持ち帰って検討します」と一旦退却せざるを得ない。これだけなら、ここまでなら、良かったのだ。でも、お母ちゃんの話には続きがあった。以下次号。


(この稿おわり)


お母ちゃんを待つツバメのヒナ。



















































.