おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

裸電球と「よげんの書」の出現     (20世紀少年 第100回)

 このブログの第100回記念日。ようやく「よげんの書」がケンヂの手元に戻るときが来た。第3巻の175ページ、自宅から焼け出されたケンヂ一家が当座の住まいとしているのは、かつてユキジが祖父と暮らした接骨院である。

 その天井から信じがたい家電製品がぶら下がっている。裸電球。1990年代の後半の東京で、このような原始的な照明器具が残っていようとは。1960年代、さすがの私の実家も、蛍光灯などほとんどなかったとはいえ、電球には笠が付いていたと思う。

 小さいときに両親を事故で亡くしたというユキジ。幼いころは、さぞかし淋しく、つつましやかな生活を送っていたことであろう。ケロヨンは、暴れ者のユキジのおかげで、おじいちゃんの接骨院は大流行だったと言っていたが、さもありなん、じいちゃん孝行かくあるべし。


 ケンヂは一人、ちゃぶ台で食事中。カンナは哺乳瓶を抱えて、祖母をながめているから、まだ離乳していないのだ。お母ちゃんは布団にもぐりこんだままで、例によって、「昔は良かった」節を聞かせているのだが、そのおかげで、昔ケンヂがせっかくお母ちゃんが植えた庭のアジサイを引っこ抜いて、何かを埋めたという逸話が出てくる。

 ケンヂは焼け落ちたコンビニの跡地に立ち戻る。中3のとき、お姉ちゃんのキリコが買ってくれたエレキ・ギターも、すっかり焼け爛れてしまった。ケンヂは「まるで、ジミ・ヘンのギターだな」と呟いているが、ジミについては次回、語ろう。


 庭があったはずの場所を掘ると、はたして煎餅の大きな缶がでてきた。中には「よげんの書」の原本があった。出るべきものが、出るべき時に、出てきたのだ。それにしても、なぜここに?

 もしかしたら、秘密基地にみんなで埋めた缶は、その形状からしてスケッチ・ブックが中に入らず、ケンヂは別途、他の容器を探し出して、しまいこんだのかもしれない。本人が覚えていないので、どうしようもない。

 これが出土した以上、ケンヂは立たなければならない。愚痴が止まらないお母ちゃんとカンナを連れて、ユキジの実家を出る。直後にユキジはヨシツネとマルオを連れてくるのだが、すれ違いになってしまった。このあと3年間、ケンヂの孤高の戦いが続く。


 とはいえ本人には迷いが残っていたのだが、ベンチで弁当を広げている神様に出会った。「主よ、いずこに?」とは訊かれなかったが、この神様は、焼け跡から見つけ出したレーザー銃をケンヂに手渡し、決戦のときにこれも必要だろうと決起を求める。

 さらに「神様、俺、勝てるかな?」と自信無さげに問う正義の味方に対して、またもボーリングを引き合いに出しながら、「ガターを狙って投げる奴あいねえ。ストライク狙って投げなけりゃ始まらねえ。」と、この人らしい応援の仕方をする。


 この神様は、自分で答え切れない質問を受けるたびに、「俺は神様じゃねえからな」と語るのであるが、日本古来の神様というのは、一神教の神とは別物であり、あたま数も800万ほど取り揃え、それぞれ長所に短所、役割分担や縄張りがある。各自が全知全能ではないのだ。他の多神教ヒンドゥーも北欧もギリシャも同様である。担当分野でのご利益があれば十分です。

 ケンヂは決意した。運命の子、カンナの表情も明るく力強い。物語はこのあと時空を飛んで、2000年のタイはバンコクに移り、異色の登場人物をお招きすることになる。その前に、ジミ・ヘンドリクスのギターとは何かを書こう。



(この稿おわり)

春は菜の花、秋には桔梗。そうして私は...。