おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

カラオケ     (20世紀少年 第22回)

 ケロヨンの結婚式に戻ろう。式辞の直前というのに、ケンヂはやはり敷島教授の家の落書きが気になって仕方が無いらしい。絵に描いてマルオとヨシツネとキンちゃんに見せるのだが、彼らも精彩を欠く。どこかで見たような、というケンヂ並みの記憶しかない。

 キンちゃんの登場は、この場面が最初で最後ではないかと思う。彼らの少年時代の絵を丁寧に眺めれば、それらしき子供がいるかもしれないが、そうであったとしても重要人物ではないだろう。ケロヨンの友達ということで、この場に招かれているに過ぎない様子である。

 その彼でも、ともだちマークは見覚えがありそうだから、この印は、彼らが当初のオッチョの秘密主義を捨てて、ドンキーが作った旗を高々と掲げた時点で、目立つ存在になったのだろう。”ともだち”や他の子にも見えるほどに。


 披露宴の席上、ケンヂは突然、お見合い話を持ちかけられる。1977年時点でのケンヂの人生設計はどうなっていたのだろうか? もう彼も30代後半だ。何か考えていても良い。

 披露宴の最中に葬儀屋のおばさんから見合いの話が来るというのもゴージャスな設定だが、ともあれ「あんなもん背負っていちゃ、まとまる縁談もまとまらない」、「こんな巨乳も、みすみす逃すことになる」と言われてケンヂは怒る。

 彼は姉にたくさんの重たい借りがある。カンナを見捨てる訳にはいかないのだ。そのカンナは0歳児にして、タマゴボーロ(これも懐かしや)相手に、早くもその人並み外れた能力の片鱗を見せている。


 第2話のタイトルは「カラオケ」であるが、59ページ目からのケンヂの述懐によれば「地球の平和を守るのが夢だった」ため、「カラオケは歌わない主義だった」はずなのだが、両者の因果関係の不明瞭さはともかくとして、今の彼は地球の平和よりも、店のことや、カンナのことが大切であった。

 だからこそTUBEも歌い、ガッチャマンも3回唄い、これで良いのだ俺の人生はと酔いながら一人ごちている。彼の平和が続いたのは、このころまでだった。ドンキーが死に、地球の平和まで危うくなっていることが、続々と入ってくる凶報や、意外な出来ごとにより明らかになっていく。

 多分、ケンヂがカラオケを封印したのは、バンドをやめたときだろうと思う。ギターと歌は彼が世の中と戦うための武器でもあったのだから。コンビニ店主には不要なものだ。バンドの記憶も思い出すだに辛いものだったに違いないのだが、それもカンナの可愛さと経済活動の大変さの前には色あせて来ていた様子である。ところが、そうは問屋が卸さなかった。


(この稿おわり)



The Season in the Sun (2008年8月1日撮影、石垣島にて)