おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

五重塔  (第1346回)

 
 臨時国会が始まった。与党は最新の改正草案を撤回するつもりはないと、幹事長が仰っている。まだ読んでいる途中の私としては、今ここで「やっぱし、やめた」と言われるのも困るが、このままの案で自信があると言われても困る。困った国、日本。

 ところで憲法には、「政教分離」という言葉が出てこない。小欄で前回までに悩んだような事情により、このテーマは一筋縄ではいかないため、「政治と宗教は、これを分離しなければならない」では、言葉足らずもいいところになってしまう。

 このため我が憲法において、日本における政教分離とは何かを定めないといけない。関連する条項は二つある。第20条と、もう一つ、財政の章に第89条がある。宗教という用語が出てくるのは、この二条だけだ。


  【現行憲法

第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
二 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
三 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

第八十九条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。


 改正草案との比較は、次回以降にする。まずは、上記を読まないと先に進めないのです。第20条第1項の前半、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」は、当然ながら第13条にある総論的な制限、「公共の福祉に反しない限り」が掛る。これについては個別法で見ると分かりやすい。

 宗教も営利事業と似て、個人または個人のグループ(任意団体)が行うものと、宗教法人という法人格を得て行うものがある。詳しくないが宗教法人に認定されると、税制面などで優遇措置があるらしい。この法人制度について定めた法律が「宗教法人法」。その第81条に、こういう規定がある。


  【宗教法人法】

(解散命令)
第八十一条  裁判所は、宗教法人について左の各号の一に該当する事由があると認めたときは、所轄庁、利害関係人若しくは検察官の請求により又は職権で、その解散を命ずることができる。
一  法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をしたこと。
二  第二条に規定する宗教団体の目的を著しく逸脱した行為をしたこと又は一年以上にわたつてその目的のための行為をしないこと。
(後略)


 これを引用したのは、ご覧の通りで民法と同様、すっかりおなじみになった「公共の福祉」が出てくるからだ。当たり前だが憲法の影響は、こういうふうに随所に見つかる。改正草案が全て抹消しようとしている「公共の福祉」は、その念願がかなったら、この箇所はどうするつもりだろうか。

 なお、上記において第二項までで転載を止めて、(後略)としたのにはちょっとした訳がある。この第一項と第二項により、オウム真理教に解散命令が出た。最高裁の合憲判決にも、両項が出てくる。人の幸せを踏みにじった罰である。ただし、宗教法人の解散命令であるため、周知のとおり個人事業である後継団体は活動中のままだ。


 法人でなくても組織があれば、第20条第1項の後半に出てくる「宗教団体」に該当する。第20条は、個人の信仰に優しく、団体客には厳しい。すなわち、第1項の前半は個人の信仰の自由、また、第2項は個人が宗教的な「行為」を強制されないことを定めている。いかなる権力も暴力も心の中まで強制できないが、踏み絵は強制できる。

 組織に対する禁忌は、第1条後半にある宗教団体への禁止令、および第3項にある「国及びその機関」に対する禁止令。前回の辞書的意味が示すとおり、政治と宗教は相互に介入してはならないのである。組織同士の邪魔も癒着も駄目。なお、別項の第89条も、国家権力に対する命令である。公金の話だ。


 上記について、また、個人的な体験を書く。前回の話題に出した谷中の天王寺には、かつて五重塔があった。今は礎石が残るのみで、小さな公園のような空き地になっている。この塔は、そのすぐ近所に住んできたこともある幸田露伴の小説、「五重塔」のモデルになった。露伴と同い年の正岡子規も、この塔が好きで、彼の俳句や散文によく出てくる。

 しかし、昭和期に心中の放火で全焼した。この塔には再建計画がありましたと、かつて公務員の方に聞いたことがある。なぜ、実現しなかったのですかと尋ねたら、特定の宗教さんにお力添えができず...と苦笑してみえたのを覚えている。確かにハードルが憲法では、至難であろう。


 今回は余談めいたもので終わる。憲法の第20条と第89条には、おそらく以下に述べる「出典」らしきものがある。この憲法が、アメリカなりGHQなりに押し付けられたものなのかどうかは、議論が分かれているようだが、こちらは問答無用だったに相違ない。

 通称を「神道指令」と呼ぶらしい。正式名称は長く、これでは通称も必要だろうな。「国家神道神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件(昭和二十年十二月十五日連合国軍最高司令官総司令部参謀副官発第三号(民間情報教育部)終戦連絡中央事務局経由日本政府ニ対スル覚書)」という。文部科学省のサイトにもある(上から三つ目の文書)。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317996.htm


 日付が昭和20年の12月になっている。まだ戦争が終わったばかりで、ちょうど新憲法のドラフトを、アメリカと日本が相互に作って、やりとりしていたころである。したがって、この文書に出てくる用語や考え方が、憲法に影響した可能性があると考えても無理ではなかろうぞ。

 例えば、この神道指令の冒頭にある禁則の(イ)は憲法第20条第3項、(ロ)は第89条と類似した内容にみえる。神道指令と同じ年の同じ月に、日本側で作られた「憲法草稿要領」には、宗教の自由については簡潔に触れられているのみである(国民ノ言論学術芸術宗教ノ自由ニ妨ケル如何ナル法令ヲモ発布スルヲ得ス)。


 他方で、翌年2月に提示されたいわゆる「GHQ草案」または「マッカーサー草案」の第19条と第20条には、現行の憲法とほぼ同様の規定がある。占領軍は譲らなかったのだ。神道指令の前書きには、国家神道が「戦争犯罪、敗北、苦悩、困窮及ビ現在ノ悲惨ナル状態ヲ招来セル」イデオロギーであったと明記されている。

 当時の日本国民のうち、イデオロギーなる仰々しい言葉がどれほど知られていたか存じ上げないが、戦勝国側にとっては、戦闘や植民地の奪い合いなどはお互い様なので責める訳にもいかず、国家神道こそ世界の平和を乱す「戦争犯罪」の教条であり、自業自得の惨状だと、こういっては何だが当たり散らしている感じ。


 とはいえナチスのような手作りのイデオロギーではなく、神道は万世にわたる宗教だし、最高位を天皇が務めてみえるとあって、丸ごと根絶するのは諦めている。たぶん海外では、日本は仏教国ということになっているのだろうが(推測です)、実際の信者数は、数え方にもよるらしいが(なんせ、この国では信仰に関して、複数回答も可なのである)、仏教に引けをとらず神道の信者も多い。

 そういう訳で、当時の国家神道は厳しく断罪されたが、この神道指令も、国家と関わらない神道については、他の宗教と変わりはないし信仰の自由はあると述べており、よって憲法も全部ひっくるめて「宗教」とのみ語っている。では、改正草案がどうなっているかを次回検討します。






(おわり)






私はケヤキが好きです。
上は千鳥ヶ淵の墓苑 (2016年9月13日撮影)。
下は越後の温泉郷にあるご神木 (同9月24日撮影)。
















































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