これまで何回か書いた話題の繰り返しから始めます。このブログを始めたのは2011年6月。東日本大震災の三か月後。あの震災がなかったら、このブログは始めていない。生涯、ブログは書かなかったかもしれない。人生を変えました。
地震は拙宅の地域で震度5強。自宅にいて激しく揺れ、片付けなどしながらTVをつけっぱなしにしていたら、仙台平野を飲み込む津波の映像。幸い家族親戚にけが人はなかったが帰宅難民が続出。
近くの浄水場は基準値を超えるセシウムが出て、しばらく水道水は飲めず、拙宅はぎりぎりで範囲外だったのだが、近所から北側にかけて計画停電。もちろん、しばらくは自分もお客さんも仕事が手に付かず、途方に暮れた。
被災地に比べれば文句が言える立場ではないのだが、それにしても少しは気分転換をして立ち直りたかったので、震災前から予約していた温泉宿にニ三泊の旅行に行った。新潟県の魚沼にある。
震災後はじめての宿泊客だったそうで、閑散としていたのは気の毒だったが、こちらはおかげでのんびりした。その宿にコミックス「20世紀少年」が積んであり、浦沢直樹は「パイナップルARMY」以来のファンだったら、部屋で読んだ。面白かった。読み終わる遥か前に戻る日が来た。
自宅に帰って全巻揃えて読み終えた時点で、このブログを始めている。ところで帰路は、温泉宿から最寄りの駅までのバスに乗ったのだが、途中の道の駅で、休憩時間があった。
そのそばに公民館らしき施設があり、ちょうど昼飯時で、炊き出しをやっている。誰が誰に何のため?と、いつもながら好奇心は旺盛なので、近寄ってお訊きした。
炊き出しをしているほうは、地元の新潟県のみなさん。受けている方は、福島県から避難してきた方々であった。資料館名は後述するが、長岡で聞いた話では、そのまま新潟に引っ越してきて居ついた一家もあるらしい。
それまで、新潟県といえば日本海側の北陸地方、福島県といえば太平洋側の東北地方で、それはその通りなんだが、学校で習った知識だけでは、ずいぶん遠く、別の地域に思えておった。しかし隣接している。
それどころか、交通は活発で、江戸時代から複数の街道があり、今も鉄道と車道が、会津方面から北越中越との間を走っている。実際、地元の方々からすれば、お隣さんの感覚だとおっしゃる方もいた。
今回これに乗りました(2019年10月17日発)。
それにしても、炊き出しとはお疲れ様ですと申し上げたところ、中越のときにお世話になりましたから、という目の覚めるようなご返事であった。2004年、新潟県の中越地方を中心地とする、震度7の記録が残る大地震。
あのころ私は生涯でもっとも仕事が忙しく、土日も働くのが普通でTVニュースや新聞さえ時たま眺める程度の余裕しかなかった。それでも、一つだけ覚えているものがある。雪国の寒い冬を迎えた、新潟の避難所からの報道だった。
大事件のニュースではない。阪神・淡路以降、活発になった震災ボランティアのみなさんが、ここでも活躍されていたのだが、熱いソバやウドンを炊き出して提供すると、受け取った地元のご老人たちが、何度断っても代金を払うと言い張り、ボランティアの皆さんが困っております。
火焔土器も中越の産。岡本太郎のコメント付き(10月19日撮影)。
東日本大震災の年以降、毎年一回、被災地を訪問して、手を合わせ慰霊の旅をしている。今年は偶然、この秋に新潟への出張があり、日程に余裕ができそうだったので、今回は中越地震のお見舞いに切り替えることにしました。
主な行先は、宿泊した長岡、用事の合間を縫って、電車で新発田、新潟。そしてバスで、今は長岡市と合併しているが、当時、山古志村と呼ばれていた地域。行った順に、次回は山古志、次々回は長岡ほかの話題を記事にいたします。
(つづく)
良寛さまも越後で生まれ、越後に眠る。長岡駅にて。
(2019年10月18日撮影)
世界中が誰もかも えらい奴に思えてきて
まるで自分一人が いらないような気がするとき
突然おまえから電話がくる 突然おまえから電話がくる
あのソバでも 食わないかってね
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