おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

巣鴨プリズン  (第1105回)

 前回の続きです。「静岡連隊物語」の一節、「帰還前後」の帰還後部分は、その前半が前回の話で、後半が今回の話題。戦争が終わってから二年〜三年後のことだ。急ぎの戦後処理が終わり、軍事裁判が始まった。東海軍もB級戦犯の容疑者を出す。
 
 この箇所の柳田さんの報告は、本人が実見したのか、他の人から聞いたものなのか、両者が混じっているのか分からない。自分で見たような語り口調なのだが、しかし例えば、巣鴨拘置所の最後の場面に臨めるものなのかどうか。おそらく少なからずの関係者に取材したものではなかろうか。


 前回に講演録だと書いたとおり、冒頭で自分は陸軍の一等兵であったが、聴衆は「昔の兵隊の位で申すなら、師団長、軍司令官の大官将軍のトップクラス、満堂の皆さまを前にして」を語っているので、どうやらお歴々を前に一席、講話を頼まれたらしい。

 その人たちが知らないはずの話として、以下の逸話が語られている。新聞に写真を載せ記事を書いてきた彼が、「一行の新聞記事にもならないで」過去のこととなってしまっていると話している。


 東海軍は80回もの空襲に遭った名古屋を始め、所轄の東海各県から集められたB29搭乗員のうち、何度も襲いに来た者を中心に、約五十名のうち、三十余名を処刑した。ほとんどは斬首。報復に燃えるGHQは、彼らの遺品を掘り起こすほど徹底的に調査したそうだ。

 岡田軍管区司令官は、着任後わずか半年で終戦を迎えており、その全部に責任があったわけではないと柳田さんは語る。一方、他の地域でも同様の裁判が進行していたが、上司や部下に自分の所業の罪をなすりつけようとした輩が続出した。


 その中にあって、横浜の裁判所におかれた法廷で岡田司令官は、部下に過失があれば全責任は自分にあると主張し続けた。特に下士官は自分の命令に従ったのみであり責任なし、「部下の無罪釈放なくんば、何もしゃべらん」とまで言い、下士官はその通りスガモ・プリスンから釈放された。今の池袋サンシャイン。

 士官ともなるとそうはいかず、二桁の元軍人が巣鴨拘置所に放り込まれたまま、司令官と同じ被告席に座らされた。司令官はひたすら自分の責任であると主張し続けたのみならず、この先が本当にすごいのだが、米国人の弁護人とともに、米軍の空襲は民間人の無差別殺人であり、国際法違反であるという論戦を展開した。


 いずれも認められた。後者の論点については、周知のとおり、これに先立つ極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)において、連合軍側に否定されている。下級審が最高裁判決をひっくり返したようなものだ。そして昭和二十四年、司令官は絞首刑になった。

 司令官は拘置所のミリタリー・ポリスに前例のない無理を言って、執行の朝、部下一人一人に別れの言葉をかけてまわり、俺の後に付いてくるなよと挨拶してから、手作りのサンダル履きで刑場に向かった。連行したMPは泣き出しそうな表情で、どちらが死刑囚なのか分からない光景だったそうだ。享年六十。以下、柳田さんの語りを引用します。


 この人の、切なる悲願はかなえられました。長期刑の人たちことごとく減刑となり出所しました。
 軍司令官だた一人だけ刑死して、部下が全員助かったという例は、全国に一つもありません。
 あの乱世のさ中に、一行の新聞記事にもならないで、戦犯という名のもとに、死んでいったこういう人もあったのです。
 その人の名は、岡田資と言います。
 長い歴史の上に、あの軍事裁判という勝者の審判は、いろいろの意味で不幸な宿題と、暗い運命をもたらしましたが、この軍司令官の切なる願いを聞き入れて配慮をしてくれたこの事実だけは、彼らの英知として長く記憶にとどめるべきでしょう。


 念のため、上記引用箇所の「彼ら」とは、GHQの裁判官および弁護団のことです。サンフランシスコ講和条約の二年前のことだから、占領されたままの日本では新聞記事にしづらかったのかもしれない。

 しかし、岡田司令官ご本人が獄中で書いたものが残り、また、釈放された多くの部下が生き証人となって語り継いだため、後年、本にもなり、映画にもなった。その映画「明日への遺言」の感想を次回に書きます。




(つづく)


やっとで撮れたツバメ  (2017年6月14日撮影)





 And I ain't seen the sunshine since I don't know when.

 最後にお天道様を拝んだのは何時のことだったか。

      「フォルサム・プリズン・ブルース」  ジョニーキャッシュ














































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