おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

アンダーグラウンド  (第1112回)

 前回の続きのようなものから始めます。月に一回程度のことだが、築地近辺に行く。巨大な聖路加国際病院を見上げて歩く。ここまで大きな建物を必要とする理由の一つは、日野原重明元院長がチーム医療、人間ドック、救命医療などの概念と体制を導入してきたからだ。

 もう十年以上も前に、一度だけ日野原先生の講演をお聴きしたことがある。その前後に買った「生きかた上手」の黄色い背表紙は、今も拙宅の書棚に並んでいる。奥付を見ると、2002年の第六刷だ。定年以降はずっとフルタイムのボランティアで働いていますと書いてある。執筆当時90歳...。


 築地に行くときは、日比谷線に乗る。新入社員時代に北千住駅で銭湯に浸かっていたのは、この駅で常磐線日比谷線の乗り換えをしていたから。別件で千代田線を使って北千住に戻ることもあった。当時も現在も、都心と住居を結ぶ便利な地下鉄。今も毎週のように、どちらかに乗る。

 この二つの路線が、1995年3月20日の朝、オウム真理教地下鉄サリン事件と後に呼ばれるようになった無差別大量殺人の現場にされてしまった。この日はたまたま海外出張中だった。そうでなければ、あのころ日常的に霞ヶ関近辺で朝から仕事という業務に従事していたから、恐ろしい目に遭ったかもしれない。


 あのとき日比谷線築地駅で停まった。そのそばにある聖路加病院は、日野原院長の即断で一般外来を止め、その日だけで600人を超えるサリンの被害者の受け入れて、治療にあたった。このたびの訃報に接し、手を合わせてみえる方も少なくないはずだ。

 村上春樹アンダーグラウンド」によれば、もっと遠くの駅で降りた被害者も、どこで治療を受けられるかと警察官に質問したところ、無線で連絡を取り合った警官から「聖路加に行ってください」と言われたそうだから、もう野戦病院のような状況だったに違いない。


 村上さんの取材相手の中に、信州大学の医学部の教授も含まれている。この先生は(本には実名が出ているが、今もお望みかどうかわからないので伏せます)、オウムの松本サリン事件で、医学部の優秀な学生を失った。地下鉄サリン事件が起きた3月20日は、その彼女が生きていれば出席したはずの卒業式の日だった由。

 この先生がテレビで速報を観ていると、ちょうど報告書の取りまとめ作業を進めていた松本サリンの実例と症状が似ている。聖路加に電話すると、もう100人ほどの患者が来ていたが、未知の毒物の対処に困っているところだったらしい。松本の教訓は、築地に伝えられた。


 このブログを始めて以来、カルト(あるいは、そのようなもの)であった犯罪者集団”ともだち”とやらの理解には、常に悩まされてきた。何故こんなことをするのか、何故言いなりになるのか。現実にオウムの事件があった後だから、とてもじゃないがSFファンタージの悪者で済まされない。

 それに、前にも書いたように、実行犯や幹部のおそらく過半数は、昭和三十年代生まれで、マスコミにオウム世代と呼ばれ、つまり私であり、「20世紀少年」の登場人物たちである。

 これがまた碌でもないジェネレーションで、バブル景気時代に二十代後半を迎え、スピリチュアルと自己啓発にはまり、平然と晩婚・非婚・婚前交渉をたしなみ、キラキラネームを本格化させて、学校だけでなく家庭においても「ゆとり世代」を育てた。いま主要閣僚になっている。


 私はなぜか聖職者という言葉が好きで、その代表格は前回挙げた宗教指導者だろうし、もう少し広くとれば、医師や教師も含めるのが普通だろうな。浦沢漫画にも、聖職者がよく登場する。中には悪い奴もおるが、元悪い奴が活躍するという設定が、少なくないのも興味深い。手塚漫画の伝統でもある。

 せめてもの幸いは、私の同級生たちにも、医師や教師の道を選んだ者がけっこう多くて、衰え行くご老体を酷使しつつ、いまなお第一線で身体を張って働いている連中が少なくない。まだ90歳まで遠い。時間と体力は残っている。少しでも良い世の中にして、バトンタッチしないとね。




(おわり)




先週末、雨の隅田川  (2017年7月29日撮影)








 パーキング・メーター、ウイスキー、地下鉄の壁
 Jazz men、落書き、共同墓地の中
 みんな雨に打たれてりゃいい

      「情けない週末」  佐野元春






























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