おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

Buffalo '66  (第1049回)

 さあ、久しぶりに、のどかな話題で感想文が書ける。1998年のアメリカ映画、「バッファーロー'66」は、公開当時、首都にさえ映画館がない国にいたため、21世紀になってからレンタルで観たはずだ。最近また観た。ご覧になっていらっしゃならい方は、拙文を読む前にぜひ一度ご覧あれ。これほど切ない”I love you.”を聴ける映画もめったにない。

 映画「20世紀少年」の第2章に、ブリトニーさん生涯最後のダンス・シーンが出てくる。ダンスに全く疎い私は(特に社交ダンス的なものは、中学時代のオクラホマ・ミクサ以来、縁が無い)、マライアさんが手をうちながら掛け声で拍子をとっているこのダンスの名を知らない。

 ただ、バッファーロー'66の中では、私がクリスティーナ・リッチを初めて見た場面で、彼女がタップの練習をしているときに先生が音頭を取っている四拍子とテンポが、マライアさんのそれと、そっくりだ。監督・主演のヴィンセント・ギャロが、当人の緊急事態で無断侵入し、そのすぐ後ろを歩いていく。


 この映画の題名は、主役の生誕地と誕生年。バッファローニューヨーク州の西部にあり、ヴィンセント・ギャロが演じるムショからシャバに出て来たばかりの男が、トイレを探し求めて走り回るこの町の空港に、一度だけ降り立ったことがある。一人旅でナイアガラ瀑布を観に行ったときだ。

 小学生のころ映画では特に西部劇が好きで、図書館から西部開拓史上のガンマンらが出てくる本を借りては読んでいた。先般話題にしたビリー・ザ・キッドとか、ジョン・ウェインがラスカルの帽子をかぶって熱演していたデイビー・クロケットとか、バッファロー・ビルとか。


 映画は1990年代後半のバッファローが舞台となっている。この市を本拠地とするアメフトチーム、バッファロー・ビルズは、上記の西部劇のヒーローの名をもじったものだ。そして、この町の出身であるヴィンセント・ギャロが演じる前科者ビリー・ブラウンの母は、このビルズの熱狂的なファンである。

 バッファロー・ビルズもビリー・ブラウンも、イニシャルはBBで、如何にもB級映画にふさわしい。もっとも、息子の名前がこうなっているのは、おそらく母親がチーム名をとって名付けたものではなかろうか。66年にリーグ優勝した日、「この子」が生まれて来たので観戦できなかったと、今なお根に持っている。


 クリスティーナ・リッチが演ずる娘の名は、レイラ。そんなに多い名前とも思えないし、私と同年代でプログレッシブ・ロックを選曲している監督が、レイラの歌を知らないはずがない。ところで私の先輩に、エリック・クラプトンの追っかけともいうべき男性がおり、先年も70過ぎたクラプトンの日本公演を観に行ったという。

 しかも、世界のあちこちで、海賊版も含めて彼の音源を買いあさり、年代順にiPodに入れて、レイラのアレンジの変遷を語れるというからゴージャスである。そんな話が始まると止まりそうもないので、クリームに話題を逸らした。つい最近のことである。いやはや、ロックだぜ。


 映画のレイラは、少し抜けているというか足りないというか、小学校のクラスに一人や二人は、こういう気のいい奴がいて、われらを困らせたり笑わせたりしてくれたものだが、それがそのまま大人になったような感じ。その言動からすると、どうやら一人暮らしで定職もなさそうな様子である。

 しかも、このダンスの衣装の色と短さ(後にモーテルで着替えてはいるが)、この髪にこの化粧で、小さなハンドバッグとくれば、アメリカの街をこの格好で歩いた場合、自分で自身の商売を宣言して歩いているような風景になると思うが、彼女は精神が荒廃している訳でもなく、えげつないビジネスではなさそうだと思う。

 レイラは28歳だと自己紹介しているのだが、クリスティーナ・リッチの厚化粧は、彼女の年齢を誤魔化すためという目的もあったのかもしれない。この映画に出演したときの彼女は、まだティーンエージャーなのだ。一人ぼっちの女を好演している。でも、レイラは思いのほかブラウン家で歓迎された。


 ビリーは親父さん譲りの神経質な男で、潔癖症であり、小便姿を見られることさえ異常に嫌い、カージャックしたレイラの車のフロント・グラスが汚いと怒って拭かせ、下手だと怒って拭き方を教えている。ベッドに座るたびに、ベッド・メイキングもやりなおしている。刑務所では苦労したことだろう。

 親父さんは良い声の持ち主で、昔はバーか何かの歌手だったらしい。お袋さんは、1991年にバッファーロー・ビルズがスーパーボウルで惜敗した歴史的なゲーム(このとき私はサンフランシスコで働いていた)のビデオを、この敗戦のせいで5年間の禁固または懲役になった息子が戻って来たその目の前で、負けた試合なのに、今なお再生しては興奮し、悔しがっている。画像はたぶん本物だ。


 ビリーは出所後、実家と旧友のグーンに電話を入れている。どちらも、話がなかなか噛み合わないのだが、レイラやグーンのような人に好かれる人柄というのが重要な設定になっていることは間違いあるまい。実家も労働者階級だろうが、小ぎれいな一戸建てで暮らしていて、この一家はこれはこれで幸せなのだ。

 両親に心配かけまいとして、ビリーは政府の仕事で五年間も内緒の任務にあったため、親にさえ連絡が取れなかったというフィクションを組み立て、臨時の奥様になったレイラに吹き込む。レイラの解釈によれば、人に言えない政府の仕事とくれば、CIAだということになった。しかも、職場結婚とまで言ってしまった。どういう工夫をすれば、この二人がCIA本部の事務職に見えるだろうか。


 ボウリング場の場面が秀逸である。ビリーは、実家に大会の記念品がたくさん並んでいるように(両親もご自慢なのだ)、ボウリングの腕が抜群によい。このシーンは二人の得意技のご披露でもあるらしく、レイラは冒頭で練習していたタップ・ダンスを踊る。

 最初にこの映画を観たときには、この曲を使うかと驚いたものである。久々に聴くグレッグ・レイクの冴えたテノールのボーカルと、シンバル中心で進むバックの演奏。キング・クリムゾンの佳曲、「ムーン・チャイルド」だ。そういえば、キース・エマーソン、亡くなられた。まだまだ若いのに。


 なぜかレイラのダンスを見たビリーは心の安定を失ったようで、ガター地獄に落ちる。天国の神様の言う通り、ボウリングのことをガタガタ言う奴は、ガターに落ちて地獄行きなのだ。

 ビリーの真似をして投げたレイラの球は、腕力不足の人がボウリングをやるとこうなるというパターンを踏んで、ドンとレーンに落ち、下手なスピンもかかっていないのでストレートに進み、ピンを全て倒した。「まぐれだ」とビリーは言い放つ。でも、自慢できなくなって、もう投げない。

 二人は証明写真で、今でいうプリクラ的な記念撮影をし、そのあとで、ビリーがここに立ち寄った本当の目的が分かる。ロッカーにサタデ―ナイト・スペシャル風の拳銃ひとつ。使用目的は自分と、おそらく母をも、不幸に陥れたフットボール選手への復讐というか、逆恨み。


 ビリーが凶行を思い留まった事情は、彼の心中を映像にしたものと、後で電話を架ける、二つの場面に描かれている。なんだかんだ言って、ビリーは両親が大切なのだ。殺人で二度目のお勤めとなると、五年やそこらでは済むまい。写真を贈るぐらいではお詫びにもならない。

 電話の相手はグーンで、話題はレイラ。この二人を悲しませるのも、止めた。この先どうなるのやらと案じるのも面白いが、割れ鍋に綴じ蓋とは良くいったもので、何とかなりそうではないか。エンディングのクレジットには、「美しい娘たち」への謝辞も載せられている。低予算の映画だったので、ほとんど衣装がなかった。





(おわり)






品川にて  (2016年6月25日撮影)











Q&A


 What'll you do when you get lonely
 and nobody's waiting by your side?

    ”Layla” The Derek and the Dominos 


 Waiting for a smile from a sun child.

    ”Moonchild” King Crimson








































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