おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

清原  (第980回)

 今日は感想文とは関係が無い。取りとめの無い文章になるがご勘弁を。1982年の夏、私は一人で四国へ旅行に出かけた。鉄道の一人旅。もう大学の最終学年なのに、まだ内々定も得ていない8月だった。だが、この夏休みに四国・九州を旅するため、何か月もバイトしてお金を溜めて来たのだ。誰が止められよう。

 もっとも、この無謀さと傲慢さのツケは、間もなく秋になって大変な労苦という形で私に襲いかかってきたが、今に至るまで後悔したことはない。長い道中いろんなことがあったが、今日は徳島に立ち寄ったときの話に絞る。周遊券で回っていたので徳島の駅で下車し、近くの大衆食堂で昼飯に親子丼を食った。


 当時はどこへ旅行に行っても、昼は親子丼と決めていたのだ。何の意味もない味比べのために。隣の席でおじさんが二人、地元の高校野球の話をしていた。今年の池田は強いという。私にはその名に聞き覚えがあった。その十年も前か、部員11人で準優勝して話題になった池田高校のことだろう。

 再び強くなったかと喜んで聞いていたら、甲子園に出て来た池田の初戦の相手が、選りによって私の母校であった。母校も善戦したが、勝てなかった。池田はそのまま、もの凄い勢いで勝ち進み優勝した。翌年も新チームの編成に成功して、センバツで優勝。そして次の夏も甲子園に出場する。当然、優勝候補だった。


 その年、私はかろうじて拾ってもらった銀行に就職し、新入社員としてカウンターの後ろで丁稚奉公の事務仕事をしていた。当時の銀行は待たせているお客さんのため、夏はロビーのTVで高校野球の試合を流しており、銀行員も余裕があれば観る。私も新入社員のくせに観ていた。あろうことか池田は、投手と四番打者が一年生という若いPL学園に大差・完封で敗退してしまった。

 この桑田と清原のPLは、誰がどう頑張っても五大会しか出場できない春夏の甲子園に5回とも出て、その最初と最後の大会で優勝している。あまりにたくさん見たので、どの試合か忘れてしまったが、一点差および同点という二つの場面で、4番ならここで打つしかないが、この異様な雰囲気の中で打てるのかという打席で、清原は本塁打を放った。

 
 その十数年後に、このコンビと同い年の後輩と、職場で隣の席になった。生意気な男で自慢話が多く、中でも彼の大学時代の同級生が、高校のとき野球部で、清原や桑田のPL学園甲子園球場で勝ったというのを何回か聞かされた。確かにすごいが、しかし自慢している本人は何の努力もしておらん。単なる偶然ではないか。

 それに、この二人がいたときのPLに、甲子園の公式戦で勝ったチームは3つもあるのだ。これもこれで、真似しようとして真似できる敗北記録数ではあるまい。しかも、そのうち二回は決勝戦だった。そういう時代の前にも後にも、名勝負や強豪チームは無数にあったが、天下をとったのはあの時のPLだけだ。ドカベンが一気に色あせたように感じたのを覚えている。

 
 一流の打者は皆、口をそろえて言う。幾ら練習しても、打球を遠くに飛ばす能力だけは、天性の何かが必要で、訓練により獲得できるようなものではないらしい。清原には、その天賦の才があった。ところで、日本プロ野球の公式通算記録において、清原が何より目立つのは死球数である。ダントツの首位だ。無粋なことに公式記録には統計が無いが、乱闘数でも一位は固いだろう。

 ちなみに、この打者とか死球とかいった野球の専門用語を英語から日本語に翻訳したのは、正岡子規だということでもう異論はあるまい。殿堂入りも果たした。彼の随筆集「松蘿玉液」に、野球の解説文が出てくる。死球には「デッドボール」とカナが振ってあるが、打者は「ストライカー」になっている。

 子規はすでに体調が悪化し始めていたが、ベースボールに夢中になった。彼は間もなく立つことさえできなくなるが、短歌をたくさん残している。久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬも。「久方の」がアメリカ人に掛るとは知らなんだ。近所の上野公園には子規を称えて、その名を冠した野球場がある。真冬でも野球をやっている。真冬でも誰かが観ている。


 社会人になってから、海外駐在の期間さえ高額の購読料を払ってまで読み続けた週刊文春だったが、一年以上前にやめた。ますますウヨクになり、近隣諸国の悪口を書いて売ろうという時流に乗ったので見捨てた。この文春で清原のドラッグ疑惑を読んだ覚えがあるので、二年くらい前のことになろうか。どうやら、根も葉もない記事ではなかったらしい。警察もそのころから捜査を始めていたみたい。

 ここ数日の報道によれば、覚醒剤の所持の疑いで現行犯逮捕。使用していた疑いも濃いのだという。不幸中の幸いは、このタイミングで捕まったことだろう。錯乱して人を殺めたりはしていない模様である。警察の取り調べにも応じているというから、廃人にまではなっていないらしい。送検しないといけないから、医者もつくだろう。手遅れにならずに済んだのだと思いたいな。


 それにしても、このおバカ。近年マスメディアに出てしまった以上、続けていたらいずれこうなることぐらい分かっておったろうに。巨人との日本シリーズの最終戦で、試合終了間際に彼は泣いた。どこか、フラジャイルなものを抱えたまま(そのこと自体は悪いことでも何でもないが)、挙げくの果てに頼った支えが「人間、やめますか」の道か。

 自分の手元にも、ライオンズ入団当時の写真や映像が残っているだろう。当時の彼の瞳は力強く澄んでいて、それと肩を並べるほどの面構えの男となると、私には若き日の三船敏郎長嶋茂雄しか思い浮かばない。その彼も間もなく五十代だ。ご同輩、残された時間と体力は着実に減っていく。もう殆ど取り返しがつかない段階まできているのに、これからどうするつもりなのだ。


 私が子供のころのジャイアンツのV9は不滅の快挙だが、1980年代半ばから2000年代半ばまでの西武ライオンズの強さも圧倒的である。巨人より優れているのは、この間、ときおりペナントを逃しているが、その都度、世代交代を上手く成し遂げて、すぐに優勝争いに戻って来る。

 大学生のころから球団の消滅まで近鉄バファロウズのファンだった私は、多くの近鉄ファンも同意してくれると思うが、おそらくライオンズのファンよりも、ライオンズの強さを実感し続けた。清原は私にとって高校野球の覇者と、大人になってから見た最強のプロ野球チームの、両方の全盛期に所属し、しかも四番打者だった男だ。


 その覚醒剤とやらを買う金は、何処から出た。仕事帰りの夜や久しぶりの休日、ちょこっと遠い西武所沢球場や大混雑の東京ドームに、野球をみたくて足を運んだおっさんたちや、おねえちゃんたちが払った金だろうが。感謝の気持ちが一かけらも無いか。

 初犯だったということなので、そう遠くない将来、この冷たい社会に戻ってくるのだろうが一体どうする。興行の世界は賭博や麻薬に厳しい。野球も相撲もそうだ。私はおそらくリアルタイムで黒い霧事件の報道に触れた最後の世代である。たぶん、もうプロ野球の世界には戻れないし、高校野球の指導者にもなれまい。


 でも、野球以外に何がある。幸い清原には愛嬌と笑顔があり、そういう長所は教育者になくてはならない資質であって、知識や技術だけではできないことができる。あまり詳しく覚えていないが、彼は子供のファンに好かれていたと思う。子供には分かるのだ。だから子供に野球を教えてほしい。

 麻薬中毒の前科者に誰が子供を預けるかと誰でも思うだろう。私もそう思う。再起は極めて厳しい。期待できない。とはいえ、独力では無理かもしれないが、世の中には清原に世話になった人だって、無数にいるはずだ。このまま見捨てるのだろうか。恩知らずは今の清原一人で充分だ。


 私の書棚に、「新宣言全日本パ・リーグ党」という古い本がある。1988年、その詳細はいつか稿を改めて書きたいものだが、独走していた西武を後半に近鉄が追撃し、最後の最後に力尽きて、対ロッテのダブルヘッダーに勝てず、西武がかろうじて逃げ切った。

 その本によると、日本シリーズに勝ったあとの祝賀会では、石毛や清原が「これで近鉄の連中に顔向けができる」と参加者に語っていたそうだ。これでは、また顔向けができなくなるぞ。真夏の太陽が草を焼く匂いがするグランドに戻ってこないのか。手入れの行き届いた甲子園球場で、外野の芝生に立っていたのと同じような陽炎を、また見ることができるかもしれない。お互い、時間は余り無い。





(この稿おわり)




「所作の活発にして生気あるはこの球戯の特色なり、観者をして覚えず喝采せしむること多し。」 子規

(写真はいずれも2016年2月5日、上野にて撮影)










 酒とクスリで 体はズタズタ 
 忘れたいことが 多すぎる

        「彼女の生き方」 中島みゆき




























































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