2011年の夏、東日本大震災の発生から数か月経った或る日、仙台で診療所を営んでみえる医師の講演を聴く機会があった。彼はその当時に自らのクリニックで働いていた看護師を津波で失った。
その看護師さんは当日、非番だったそうだ。このため地震が起きたとき、彼女は自分だけの判断で行動することになった。私の想像だが、おそらく彼女も私や多くの人と同じく、まずはテレビをつけてNHKを観たのではないか。
国会中継の報道を中断して始まったのは、彼女の地元、仙台平野を走る津波の中継だった。看護師さんは近所に住む患者の自宅にかけつけた。そこでは老夫婦が二人で暮らしており、患者さんである妻は重病で歩けない。夫だけで連れて逃げるのは無理だと考えたのだろう。
津波が迫って来る。彼らは遠くへ逃げるという選択肢を放棄して、もう一つの方法、すなわち上に逃げることにした。その家の2階まで階段を登るに際して、動けない妻の上半身を夫が支えて上から引き揚げ、その看護師さんは下から両脚を抱えて階段を登り始めた。
津波が来て床上を襲い、看護師さんをさらって行った。ほんのわずかの差で老夫婦は助かった。医師が講演に使ったパワー・ポイントの最後のシートに小さなお墓の写真が出た。花束が添えてある。アルジャーノンのようだった。
仙台に来る機会があったら、彼女の墓に参ってあげてくださいというのが先生の最後の訴えであった。腰の重い私はまだそれに応えていない。この3年間で何度か仙台を通過したり、仙台駅で下車したりしている。そのたびにこの話を思い出す。
その講演と同じころだったと思うが、テレビのドキュメンタリーで被災地の消防団をテーマにした番組を観た。インタビューを受けていたのは私と同年代か少し年上にみえる消防団長さんで、あの津波により多くの仲間を失った。
この土地で生まれた男は、祭りで神輿を担ぐのと消防団に入るのは論ずるまでもなく当たり前のことだったと団長は語る。だが、こうして民間人でありながら最後までご近所の誘導や保護に当たった挙句に命を落とすとは、これから消防団に若者を誘っていいのかどうか分からなくなったと彼が呆然とした様子で話していたのを覚えている。
2012年3月11日に催された地震一年後の式典では、体調不良を押して参加なさった天皇陛下が述べられた弔辞の冒頭に、被災地の消防団のみなさんやそのご遺族へのお悔やみのお言葉があったことを覚えてみえる方も少なくないと思う。ニュースを観ながらあの団長に届いてくれと思った。陛下もきっと私と同じものか似たような報道に接してお感じになったことがあったのだと思う。
一部の地域を除き、あの日の主な災害は火事ではなかった。消火ではなく救命が必要な事態になった。過去の教訓を活かして作られた防波堤の水門を閉めに行ったまま戻らなかった団員さんも多いと聞く。
南三陸で津波の半年後に私が見た幾つかの水門は、頑丈だったはずのコンクリの土台や鉄製の門が流され破壊されたままになっていた。もう改修工事は全部終わったのだろうか。
先日たまたま、Facebookで原発の再開を巡る論争が目に留まった。まず、私と同世代ぐらいの男が、今や原子力は安価なエネルギーという議論は通用しないと書き、それに応戦して学生を名乗る若い男が、経費や効率をもって再開に反対するなら数字を示すべきだと糾弾している。敢えてこの原発事故から離れ、一般論でいえば学生の言う通りなのだろう。
だが中途半端な正論は、しばしば私を怒らせる。学生は反論するなら自ら算出した数値を示すなり、これまで電力会社ほか原発ムラとやらの村民が示してきたコスト計算を支持するなりせずして、相手の言葉足らずだけ攻撃するのはフェアではなかろう。
それに両者に共通して言いたいのは、そもそも東電の原発事故はまだ終息していないのである。確か過去最高と報道されていたと思うが、尋常ならざるストロンチウムなどが検出されたのは、その数日前のことだった(だからこそFacebookで言い合いになったのだろう)。今月に入ってからの測定値なのだ。
事態は悪化しているかもしれない。おそらく現地作業員の皆さんは後手後手で事後対応に追われる大変な状況なのだろう。しかも十数万人もいるという故郷を追われた福島の人たちへの賠償や社会保障・福祉は何時まで続くか分からない。こんな時点で有効な費用対効果の議論ができるのだろうか。
そもそも、原発再開の可否ついてはコスト・パフォーマンスだけで決めるものだとは私は思わない。核兵器の議論と少し似ていると思う。核兵器にどんな兵器よりも強力な破壊力や抑止力があるとしても、では世界中の国が持って構わないというものではないと考える。不測の事態が起きると人の命や暮らしに関わるのだ。金で測れないものも加えて判断するほかない。
この事故や避難民対応が完全に収束するのを待ってから国の決定が下るとは思えない。本当かどうか分からないので困っているのだが、原発がないと経済成長は至難だとか不可能だとか語る人たちがいる。しかも語るほうはまだましで、どこかで誰かが黙って準備しているような嫌な予感がする。
私も自分の子や甥姪が将来、明日の食事にまで困るような極貧の生活を強いられるのは嫌だ。もしもこの二者択一を迫られる日が来たら、そして説得力がある意見に支えられたら原発を選ぶかもしれない。でも現時点では、こう思う。
原子爆弾の被爆と原子力発電所の大事故を両方とも経験している国は日本だけである。もしも民族にも背負うべき責任というものがあるとしたら、その悲惨さを世界中に訴え続けるのは我々の権利ではなくて義務である。
先日、福島県のある地方自治体の首長のスピーチを聴かせてもらう機会があった。当時も今もその自治体の住民の大半は故郷を離れたままだそうだ。あの年の3月16日、早くも新潟県より、避難民が発生したら全面的に引き受ける準備があるという連絡があったというお話しであった。
私はその直後に新潟に行き、旅館の備品に漫画「20世紀少年」があったせいで、3年にわたりこの駄文を書き連ねることになった。ずっと前にも書いたと思うが、その旅の帰途、道の駅でバスが休憩し、近くの公民館の前で新潟の人たちが福島から来た人たちに昼飯の炊き出しをしているのを見た。暖かそうなご飯であった。
三陸海岸に近い或る高校はグラウンドが津波に襲われて、その学校の野球部は部室などに置いてあった野球の道具を全て流されてしまった。北国も春が近づいてきて、これからようやく甲子園に向けた季節が始まる矢先のことだった。
その東北のチームは北海道の或る高校の野球部と、毎年恒例の練習試合を行う仲だったそうだ。しばらくして東北に北海道から野球道具一式が届いた。ライバルの心意気である。グローブの一つにマジックペンか何かで、こう大書してあったと聞いた。これを甲子園に持って来い。
震災発生時、東京スカイツリーはまだ建設途中だった。耐震構造は完成していなかったかもしれない。だがあの日、窓の外を見たら無事であった。空の上で工事中の方々もいらしたそうだが、幸い大きな事故はなかったと報道で聞いた。
先輩格のテレビ塔である東京タワーは私よりも2歳年上だが、こちらも先端が少し曲がった程度で切り抜けた。うちのバルコニーからはこの両者が見えるのである。ツリーはその後、完成したし、タワーは今もエレガントな姿を見せている。当日の私はケガも物損もなかった。その日も今も単に幸運だとしか言いようがない。
(この稿おわり)
バルコニーの夜明け (2014年2月26日撮影)
時はめぐり また夏が来て
あの日と同じ 通りの角
吹く風やさしき 杜の都
あの人は もういない
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