おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

三陸海岸を歩く (山田〜大槌〜釜石)

 前回引用した近所の作家、吉村昭三陸海岸津波」の最後の辺りに、「私は、津波の歴史を知ったことによって、一層三陸海岸に対する愛着を深めている。」という箇所が出てくる。そして「私は、今年も三陸海岸を歩いてみたいと思っている。」という一文で終わる。

 吉村さんは2006年に亡くなった。彼が散歩していた上野や荒川近辺の道を、今は私が歩いている。彼が目撃することなく終わった平成の三陸海岸津波の地を私が歩かずして誰が歩くか。という意気込みで朝5時に起き、宮古駅まで歩いて始発のバスに乗った。他の先輩方は北に向かう「あまちゃん」ツアーなのだが、こちらは正反対のつむじ曲がりの一人旅。宮古湾が朝日に輝いている。



 バスは道の駅「やまだ」まで。ここで更に南に進むバスに乗り換えた。宮古と山田の湾は、戊辰戦争で榎本艦隊が寄港したことでも知られる。外海から見えにくい天然の良港だが津波は容赦なかった。今回乗ったバスの運転手のお一人と休憩時間に少し話をした。彼は津波の日まで山田町に自宅と職場があり、その日は地震が発生したとき高台にある会社にいたため、ご自身は無事であった。

 しかし低地のご自宅にいらした奥様は津波にのまれた。いかなる運の分かれ目か、彼女は近くにあった何かに引っかかり救助されたそうだ。ただし、ろっ骨が折れて肺に突き刺さるという命に関わる重傷を負い、盛岡の大きな病院に搬送された。ところが次々と彼女よりも更に深刻な患者が運び込まれてきて、やむなく小さな病院に移されたとのことである。幸いお身体は元の健康を取り戻された由。ただし、津波の映像も写真も目を背けるだけで、未だに一切ご覧にならないそうだ。


 バスは途中下車した。土地鑑が全くないのだが、たぶん大槌町の南端あたりだろうと見当をつけて降りたのだ。旧大槌病院という切ない名前のバス停から、川沿いに海のほうを目指して歩く。橋の廃墟が見える。バス通りから海にかけての大槌の町は壊滅的な被害を受けたというより、文字どおり壊滅したらしい。

 そして3年前に見た南三陸町と同様、地面には工事用車両のための道路が整備されているが、あとは家屋や商店などの土台が残されているだけだ。路肩の鉄柵も衝撃でひん曲がったままになっている。人の気配といえば日曜日だということもあるだろうが、遠くにクレーンが何台か動いているだけだ。



 と思っていたら平屋のコンビニ店に行き当たった。荒野の一軒屋である。4月28日開業と大書してあるから開店直後だ。ここでゼリー食品と野菜ジュースを買い求め、カウンターのおばちゃんに県道までの道を訊いてみた。親切な方で店の外まで出てきて詳しく教えてくれた。何の目印もないのに彼女の指示は適切で明確であった。土地の人だろう。

 本当はもっと開店までの経緯や地震当日のお話しも伺いたかったのだが、ちょうどそのとき車が2台、駐車場に入って来た。うち1台は車体に店の名が書いてあったから、たぶん商品の仕入れだろう。もう1台は軽トラで作業服の男が二人降りてきた。クレーン作業の人たちの朝飯の調達だろうか。


 一見の客が商売の邪魔をしてはいけない。私はいま消滅した一つの町が、土埃の中から再生せんとする現場に立ち会っているのだ。おばちゃんにお礼を述べ、心中で商売繁盛を祈りつつ北に向かう。彼女の言う通り県道に曲がる角に出た。ここで曲がっていれば早々に釜石に着いただろう。

 しかし、三陸海岸を歩くという誘惑に勝てず直行し、結局、併せて2時間も歩くことになった。その間、車1台とすれ違っただけである。道の右側は山肌で、山吹が満開だ。左側は急斜面になっていて、その向こうにリアス式海岸が見える。何かの養殖をしているところもある。この日は快晴で気温も高く、最初のうちはこの景色を楽しみながら歩いていたのだが、やがて疲れが出た。







 ようやく平地に出て、釜石市方面という標識も見えた。流れる川が東京と違って透明である。ようやく県道に出る。ドラッグ・ストアで小さな弁当を買ってバス停で朝食をいただき、バスに乗って釜石駅前で降りた。二十数年目に来た時は、まだ高炉が止まる前でもっと賑やかだったような印象がある。北の鉄人と呼ばれたモンちゃんのようなラガーメンの町であった。

 釜石市から三陸鉄道南リアス線に乗る計画である。写真が下手でぼやけているが、「三陸鉄道」の看板の右に立っている柱に、ここまで津波が来たという赤い線が引いてある。駅は海沿いではないのだが。その上のポスターに誇らしげに書いてあるように、三陸鉄道は2014年の4月、すなわち私が行く直前に全線開通したばかりだったのだ。コンビニも鉄道も新築物件だ。



 三鉄のことは次回も少し書こうと思う。ともあれ釜石から電車に乗って、沿線はこよなく美しい車窓の景色だったが、かなり疲れていたので、ほとんどの区間、寝たままだった。惜しいことをしたが、まだ半日も経っていないのに、先が長いので体力も温存しなければならぬ。やがて終点の盛(さかり)に到着。

 盛の駅では私と同年配の一人旅らしき男の人が、年配の駅員さんに「この次の大船渡という所には何かあるの?」と訊いていた。駅員さんは、「盛は内陸だからまだしも助かったが、大船渡は全部流れてしまったよ」と淡々と答え、お客さんは絶句していた。


 ここから気仙沼まで、JR東日本はBRTと呼ぶ高速バスの運行をしている。バスの一番後ろの座席に乗ったところ、隣に乗り込んできた女子中学生二人が元気いっぱいで、道中ずっとカナリアのように歌を歌っている。彼女らによるとこのバス道路は、かつて鉄道であったらしい。沿道にまだむき出しの地面が残っている。

 バスはやがて上り坂に挑戦し、登り切ったところにお役所などがあって、多くの客と同様、私もそこで降りた。道路地図に従って丘を降り、しばらく車道を歩いてから陸前高田の旧市街地に出た。大槌町よりもずっと広い。海が見えず、ただし山並みが一か所だけ切れているので、そこが湾の入り口だろう。眼前の何もない広大な土地は、かつて人が住んでいた場所だった。



(この稿おわり)




 流す涙で割る酒は 
 だました男の味がする
 あなたの影を引きずりながら
 港 宮古 釜石 気仙沼

        「港町ブルース」  森進一
 





大槌から釜石へ、新緑の道を歩いた日
(2014年5月11日撮影)









































.