おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

春だったね  (第1090回)

 前回の続きのようなもの。半年ぐらい前だったと思う。仕事の関係で参加したセミナーの会場で、隣席に私より一回りぐらい年下の女性が座った。講師がお隣同士で自己紹介してくれというので、お互い名前や仕事や住所地を伝えた。お相手は福島から、わざわざ東京にお越しだった。

 その少し前に、いわき市に行っていたこともあり、今にして思えば無造作過ぎたのだろうが、「被災地に年一回、行っています」と伝えたところ、「毎年、ボランティアに行ってみえるのですか?」という質問がきた。

 嘘も言えず、ただし言葉足らずもいいとこで、「いえ、行くだけです」と答えたら、彼女は明らかに不機嫌な表情を浮かべて、そのあと最後まで口をきいてくれなかった。一人一人、思いが違う。この話題は本当に難しい。


 その前後に読んだ新聞に、お子さんだったか、お孫さんだったか、小学生のご家族を亡くした人の取材記事が載っていて、彼は毎日、早朝にその小学校の跡地に行き、線香をあげたり掃除をしたりという日課を欠かしたことがないという内容だった。

 早朝に行くようになった理由は、その小学校が津波の悲惨な被害で全国的に有名になったため、いまも観光バスで乗り付けて写真を撮って帰る人たちがいるので、見たくないとのことだった。


 私も行くたびに写真を撮る。民家の跡や人が写らないようにしているのだが、かといって、かつてそこに何があって何が起きたのかは知る由もないのだから、きちんとした説明にはならないな。そもそも何のために行くのか上手く語れないのだから、単なる年中行事かと言われても返事に困ってしまう。

 敢えていえば少しでも、まっとうな人間に戻るためと応えようか。いやなことも沢山あった人生だが、この歳まで入院もせず刑務所にも入らず戦争にも連れていかれず車にも轢かれず津波に追いかけられたこともない。この贅沢に慣れ切ってしまわないように、顔を洗いに行く。


 写真は2011年の秋に、三陸にいったとき撮影したもので、津波で流された市街地から、歩いて10分か15分ぐらいの郊外でとったものだ。写真の下半分にゴロゴロ転がっているものは、おそらく近くを通っていた鉄道や国道の残骸だと思う。地図には載っていたが、何も残っていなかった。

 その向こうの山林は、海に近い方の何列かが変色している。この地点だけではなく、歩きながら見渡す限り、こういう様子だった。何が起きたのか私には分からない。


 幸い最近の報道によると、その地は復旧復興が徐々にではあるが進んでいるとのことで、商店街もできたらしい。あのとき私が高台に移転した公共施設まで歩いて行った際、建物の中の衝立を利用して、写真展が開かれていたのを思い出す。

 写真は二枚一組で、津波の前と今を比べることができるような配置になっている。平日の昼とあってか人影まばらで、幼稚園児くらいの娘を連れた若い母親がいるだけだった。


 この小さな子が懐かしがって、盛んに「ママ」を呼び立てては、昔の写真に写っているお店などを指さしながら、その名を呼んでいる。半年以上、見ていないのに覚えているんだな。

 ママは少し離れて立ったまま、涙をぬぐい続けているだけで返事ができない。写真も見られないのだろう。今はどうしていることか。今年のひな祭りは、お祝いをしただろうか。


 私は旅行も出張も好きで、楽しみの一つは、現地のひとに現地の話をきくことだ。遠慮というものがない。しかし、このときばかりは話しかけるような雰囲気ではなく、黙って帰って来た。せめてセミナーの会場で、「観光旅行ではありません」とでも言えばよかったのか...。

 今年は、まだお金と時間が作れず(戦没慰霊でテニアン島に行ったことだし)、まだどこに行くかも決めていない。それなりの余裕ができたら、その小学校に行こうと思っている。早朝にお線香を持って。テニアンには線香と酒を持って行ったのだが、そこで酒は早いな。考えよう。





(おわり)






水仙  (2017年3月3日撮影)







 ああ 僕の時計は あの時のまま
 風に吹き上げられた ほこりの中
 二人の声も消えてしまった
 ああ あれは春だったんだね

    「春だったね」  吉田拓郎


















































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