おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

岩手行 (盛岡〜田老〜宮古)

 東日本大震災が発生してから、年に一度、被災地に行くと決めて4年目に入った。初回は宮城、2回目は栃木と茨城、3回目は福島、そして今回は5月の半ばに岩手に行ってきた。行先と季節がこうなった理由は、その初日に同窓会の先輩のツアーに便乗させてもらったからだ。これから何回かの記事は漫画と関係がない。記憶が薄れないうちに書き遺さないと。

 出発日は今年の5月10日(土)で、上野から東北新幹線に乗り盛岡で降りた。駅の地元産品売り場で、ごぼう茶というものを初めて買った。帰宅してから飲んだら結構いける(静岡出身だからお茶にはうるさいのだ)。ごぼう茶は飲むと頭が良くなると聞いた。ただいま人体実験中である。



 知らなかったが岩手は和グルミの名産地で、町中にも山中にも至ることろにクルミの木が立っている。今回お呼びいただいた震災支援をしている現地の先輩のお話しでは、この季節の岩手は新緑で最も美しいのだという。青もみじと当地では呼ぶそうだ。その季節を選んでいただいたのだ。クルミの若葉は枝先に独特な形状で萌え出づる。この写真は再掲です。

 盛岡駅からバスに乗り、もりおか復興支援センターにお邪魔した。南部藩の城跡のそばにあり、支援活動はここを拠点としている。いずれ現地にお戻しするとも聞いたが、このセンターには陸前高田津波になぎ倒された松の木を彫ってつくられた観音様がいらっしゃる。




 バスで盛岡から約2時間かけて東の海岸方面に向かった。岩手県に来たのは二度目であるが、前回は20年以上も前だから初めてみたいなものだし、盛岡や宮古は初訪問である。最初の目的地は宮古市の田老。津波で大きな堤防の一部が破壊されて大きく報道された地区である。

 明治の津波でも昭和の津波でも甚大な災害を受け、田老では先ず、今では第一と呼ばれている津波除けの大堤防を作った。世間一般では防潮堤と呼ぶのだろうが、現地では防浪堤とも言うのだと宮古市観光協会からお越しになった防災ガイドの佐々木さんと仰る担当者からお聞きした。壁の外見から「ワッフル」とも呼んでいたらしい。




 聞くところによれば(更に私の記憶が正しければ...)、上から見た姿からアルファベットの「X」に例えられる田老の防潮堤は、実際にはこの第一が今の国土交通省の設計基準により築かれたもので、いわば船の舳のように波の衝撃を左右に分かつような設計にしたらしい。「X」は最初の段階では平仮名の「く」の字を左右反対にした形で、内陸側(西側)の街区を守る仕組みだった。

 しかし他の多くの地区と同様、その堤防の外側にも人が住み始めたため、これに加えて水産庁の設計基準により高潮対策として第二と第三が「く」の字型に敷設され、第一と背中合わせになったので「X」型になったらしい。土木の素人の私には見た目で区別がつかないが、そもそも第二第三は水位の上昇に耐えるべく作られたものなので津波を防ぐ強度のものではなかった。


 私達が田老を訪れた日は薄曇りで無風、湾内の海は穏やかであった。しかし第一のすぐ内側の大半は今もペンペン草が生えているだけだ。防浪提を乗り越えた平均16メートルの津波は、ここにあった暮らしと命を根こそぎ持ち去り、もうここには建築物を置かないことに決めたらしい。


 バスに戻って観光ホテル(ここでは廃業し移転)に向かう。その建物は残っているが4階まで浸水し、特に1階と2階はむき出しの鉄筋コンクリートの柱があるのみ。法隆寺の高床式の倉庫のようになっている。このホテルの社長さんが撮影されたという当日の映像を、近くの田老総合事務所で見せていただいた。合併前の田老町役場で、平地の一番奥にお寺と並んで少し高い土地に建っている。


 これまで津波の映像は無数に観てきたし、写真集も持って行った。しかし、つい先ほど眺めたばかりの湾の静けさと大きさが記憶に残っているだけに、湾に侵入してきた津浪が向かって左側の丘を乗り越えて進んでくる映像の衝撃度は尋常ではない。ご説明によれば、田老の悲運は最初に入ってきた津浪が南側の山肌に衝突して跳ね返り、北に向かっていた別の浪と同調して第二堤防を襲った。

 その先にホテルがあったのである。更に先には保育所があった。保育所のみなさんは果断にも、やや高い所にある少し離れた中学校に逃げた。中学校の先生方はお年寄りを背負い、中学生たちは半歩ごとに斜面に並んで幼な子たちをバケツ・リレーのように運んで山に逃げた。これらのことは繰り返し行われてきた防災訓練で一度もなされなかった工夫であったという。


 再びバスに乗って復興の様子がうかがえる鍬ケ崎地区を走り、浄土ヶ浜というその名のとおりの景観の浜辺に寄った。それから当日宿泊する宮古市街地にある宿に向かった。私一人、翌日は早朝から他の人たちと反対側の南に向かうという我がままな計画である。

 フロントで明日の朝食を一人分抜いてほしい、お金は払うという交渉をした。宿の方々は私だけのために30分早く朝食を準備すると頑固でいらっしゃる。その時刻でも私の出発予定と比べて1時間以上遅い。結局かなり強引に要求を押し通してしまった。お手数かけて申し訳なかったです。


 折衝が終わってロビーのソファで一人残って休んでいたら、スーツにネクタイ姿の初老の紳士に「静岡からいらしたのですか」と声を掛けられた。団体名が出身地の高校の同窓会だったからだ。このため田老でも「静岡県はここの瓦礫を引き受けてくれた県の一つです。本当にありがとうございました。」と丁寧にお礼を言われてしまったのだが、私は東京住まいで東京から参加しているので極まりが悪い。

 しばらく話しをしていたところ、紳士はこのホテルの関係者であることが分かった。ご年齢や服装や物腰からしてオーナーかGMか、おそらく経営者の方であろう。当日は大丈夫でしたかと伺ったところ、幸い従業員は全員無事でしたというご返事である。私は改めてフロントを振り返り、忙しく働きまわる従業員の方々を見た。


 みんなこの建物の上に逃げて助かりましたからと聞いて、ご家族は?という質問ができなくなった。津波は2階まで水浸しにしたという。ホテルの前の道路は、引き波が置き去りにした自動車がペシャンコで山積みになっていたらしい。大至急で改装や消毒をして営業再開しましたと言い残して、彼はちょうど到着した大型バスの客を迎えに出て行った。

 バスが宮古の街並みに入ったとき、何となく感じた違和感のようなものは、ここの建物群の外装が出来上がってから3年くらいしかたっていない新品ばかりだからだったのだ。現在、被災地ではそれなりの規模の市では復旧復興が進んでいるのに対して、小さな町では予算人員の不足などから遅れが生じて地域差が拡大していると聞く。その現実は翌日に嫌というほど目にすることになった。

 この日の夕食時に、岩手各地で震災以降ボランティア活動をしてきたという若い女の方に、翌日の単独行の旅程を相談した。当所、考えていた沢山の訪問先は、交通の便からして一日ではとても回り切れないことが分かった。お勧めがありますと彼女は言った。ぜひ大槌と陸前高田に行ってください。つづく。




(この稿おわり)




北上高地の山桜 (2014年5月10日撮影)




(前略)

 
だんだんさむい夜があけてあたりがあかるくなりましたので、下を見下ろしますと死んだ人が居りました。
私は私のおとうさんも確かに死んだだろうとおもいますと、なみだが出てまいりました。
下へおりていって死んだ人を見ましたら、私のお友だちでした。
私はその死んだ人に手をかけて、
「みきさん」
と声をかけますと、口から、あわが出てきました。

     田老の少女の作文  吉村昭 「三陸海岸津波」より







浄土ヶ浜 (2014年5月10日撮影)

























Special thanks to Mr. Terai, Miss Horie and all the supporting members of SAVE IWATE.




















































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