おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

20世紀少年 (20世紀少年 第887回)

 中学生のケンヂが楽曲「20世紀少年」をオンエアしたときの思い出話は第7集に出てくる。その日付は「よげんの書」に出てくる2000年12月31日。マルオが運転するトラックでダイナマイトを搬送しているときのことだった。

 そのときのケンヂの記憶では、ユキジに捧げた放送ではなかった。「そのやかましい騒音を止めんか」と怒鳴り込んでくる教師に対して無敵の彼が、「騒音なんかじゃない、これはロックだ。止められるもんなら、止めてみろ」と反撃する計画であったらしい。


 そして全校の生徒からヒーローとして、やんやの喝采で迎えられるという大団円が待ち構えているシナリオであったが、誰も聴いてないでやんのであった。私の中学ではポップスをかけようとした放送部員が先生に止められる事件があった。ケンヂは進学先に恵まれなかったのである。

 おまけに残念ながらマルオも昼飯に夢中だったはずで覚えていないという。ところで、そのときケンヂは、あの曲が流れていた3分ちょっとの間、彼は無敵であったと語っている。追記すると直後に「バカじゃないの」と一刀両断にされて無敵ではなくなっている。


 ケンヂはトラックの車内でフクベエのカセット・テープから聞こえて来た「20世紀少年」を聴きながら、当日の話を「今、思い出した」と言っている。ずっと忘れていたのだ。それが今、ヴァーチャル・アトラクション内で再現されているのを再体験したわけだ。しかも、当時は知らなかった飛び降り未遂まで見た。

 この日のような混乱と失敗の直後に、中学生がどういう心境だったかと推し測ってみれば、ケンヂ少年がご機嫌であるはずがない。ラジオの音楽番組で気を取り直そうとしているときに、あれこれ語り掛けられたら、多少、面倒を覚えても仕方がない。それでも彼は一緒に音楽を聴こうとしたのだ。

 
 ナショナルキッドにしてみれば友達になってくれるかという訴えは、これからの生活を左右しかねない深刻な嘆願であったに違いない。だが、聞きようによっては明日からヒマだから付き合えと、いきなり言われたように受け止められても仕方がないのではないか。彼は長いこと友達付き合いをしていなかったようで、不慣れなせいか段取りが悪かった。

 相手も相手で、第7集ではマルオに「何しろお前は、よくムチャしたよ」と笑われ、そのちょっと前にはモンちゃんに「ケンヂはいつだって何も考えないで動き出す」と叱られ、思い出話の中でもフクベエに「あいかわらずバカ言ってんなあ」と呆れられている。他に誰も屋上におらず、かくのごとく快活で率直で単純で軽率な人物を選んでしまい、しかも堅苦しい手続きを踏んだのが不運であった。


 前回、大人のケンヂが少し気分を害しているように見えると書いた。絵柄だけではなく、言葉づかいも荒い。第22集で”ともだち”に謝ったときも、先ほどケンヂ少年がナショナルキッドに謝ったときも、全面降伏状態であった。しかし、屋上での最後のケンヂは謝罪の姿勢ではない。

 推測ながらケンヂとしては、これまで自分のズルのせいでカツマタ君が生涯苦しみ、その果てに暴走して悪政と惨事を招いたと考えていたのに対し、ここで仮想現実とはいえ改めて過去を見物したところ、中学生の自分は落胆しつつ何とか相手の希望に沿おうとしているし、他方で、相手は早々に諦め無言で立ち去っている。これが本当に友達になりたいという態度に見えるだろうか。


 そんな様子を見て、大人のケンヂはちょっと複雑な感情を抱いたのかもしれない。もう「悪かったな」というような声を掛ける心境にはなれなかったらしい。それに自分に対する相手の素っ気ない挙動に接して、彼が純粋な中学生ではなく、”ともだち”のパーソナリティが混在している仮想ナショナルキッドであるとも感じているだろう。

 案の上、「おまえ、カツマタ君だろ」という少々、挑戦的とも言えなくもない表現の問いかけに対して、ナショナルキッドは顔を上げてこちらを見たものの、黙ったままで姿を消した。彼の沈黙は、それで正解という意味に思える。ケンヂも同じ気持ちなのだろう。追いかけることもなく見送った。


 多分ようやくケンヂもここのルールと辻褄を把握して、それに沿った行動を取ったと認められたのだ。「やんなきゃいけないこと」は完遂され、もう次のステージは無かった。考えようによってはケンヂのおかげで長生きしたのに、悪の大魔王とは言いすぎではないか。こんな接待を受け、しかも中学生の自分がそれなりの誘い掛けをしたのを知り、かえってケンヂは少し気分的に救われたかもしれない。

 振り向いて中学生の自分に掛けた言葉は暖かい。この一日、過去の彼は彼なりに頑張ったのだ。でも、この日の出来事は後年、大惨事を招くきっかけになったことも否定できない。それを知っている大人の彼としては、「この先いろいろあるけど、しっかりな」と昔の自分を励ますのが精いっぱいだ。


 屋上は静けさを取り戻した。左脇に「20世紀少年」のレコ―ド、右側にホウキギターを置きっぱなしのまま、再び目を閉じてケンヂ少年はトランジスタ・ラジオの音楽に聴き入っている。ロックはホウキや他のバンド任せではダメだ。自分でやるしかないとでも思っているのかもしれない。

 ナショナルキッドは、この先、おそらくこれまでと同じような生活を送ったのだろう。いつまでたっても、理科の実験の前日に亡くなり、幽霊となって理科室に出るという噂のまま第1集を迎えてしまうのだから。


 ここらへんで私としては逃げ出したいところだが、まだ前回に提起した疑問を残している。ケンヂはなぜカツマタ君と断定したのだ。プロポーズしたばかりのユキジに「ああ」と言っているのだから、自信があるはずである。しかし、私が下巻のどこを読んでもカツマタ君を示唆・連想させるような事柄は出てこない。

 全編を振り返ってみても、理科の実験が大好きらしいということと、山根と仲が良かったらしいということぐらいしか出てこない。その山根にしても、第12集でフクベエを撃っただけで、もう終わったと安心しているところをみると、カツマタ君の関与を知らないのだろう。一番印象的だったのは、フクベエが鏡台に向って「カツマタ君?」と自問しているシーンだ。お面の子の一人だったのだ。

 
 ここまで徹底して証拠がないのだから、あとは推測と意味づけで工夫するしかない。前回書いたが、ケンヂはこの屋上の場面でカツマタ君だと判断しているはずだ。飛び降りの件は知らなかったし、1997年の時点では幽霊の話をかろうじて思い出した程度である。したがって中学生のケンヂとナショナルキッドのやり取りを見聞きしているうちに、ようやく思い起こすことがあったに違いない。

 この日の中学生ケンヂは、学校の廊下で素顔のままの男子生徒とすれ違っている。鼻息荒く放送室に向かっているので、その際にしっかり顔を見たかどうかまでは分からない。確かなのは、当然だけれどもサダキヨと同じく、このナショナルキッドもさすがに廊下や教室の中ではお面をかぶってはいなかったはずということだ。


 ケンヂは少なくとも小学校の高学年から中学校の一年生まで、カツマタ君と同じ学校に通っていた。多分9年間、同じ学校で同じ学年だったろう。そして、カツマタ君はオッチョと同じ団地の同じ棟に住んでいたはずなのだ。ナショナルキッドのお面を付けて、公園にもいたし神社の前も歩いていた。

 大人になって忘れてしまった存在ではあるが、中学生のこの日、お面の少年に声をかけられて普通に会話しているということは、1973年の中一時代には相手の顔と名前を知っていたと考えて不自然ではない。ここにきてバッチ事件ほかいろいろと記憶を取り戻したケンヂは、脳内のその当時の記憶装置が活性化している。屋上の会話を見聞しながら、ふと思い出したのだろう。そう考えても無理はないように思う。


 最後の最後、作者はなぜこのような人物を”ともだち”の正体に選んだのか。ここでまた繰り返せば、巨大ロボットが再び出現してカンナが驚いているシーンも、カツマタ君の幽霊の話も第1集で既に出ている。最初から構想は出来上がっていたと考えた方が良い。

 フクベエの場合は、身近な仲間が実は犯人だったというミステリでは常道と言い得る設定だったが、カツマタ君は違う。なんせ最後まで死者あるいは幽霊のはずだったのだから。「Nowhere Man」なのだ。ホラーならともかく、冒険小説でもSFでもこういう設定は少ないだろう。


 ヒントは繰り返し撒かれていた。友達の友達が言うことなんか信じられないとか、死んだはずの人間が生きていたとか。カツマタ君の幽霊の話も何度か出ている。だが、これらは彼が”ともだち”だったという最後の種明かしが、あまりに唐突にならないような工夫であって、「なぜカツマタ君なのか」「カツマタ君的な人物なのか」という問いの答えにはならない。

 こうしてあれこれ書いているのは、書いているうちに分かるかもしれないという最後の手段にすがったのだが、やっぱり分からないのであった。それでも思い浮かぶ事を書くならば、ケンヂもカンナもキリコも「自分のせいで大勢の人が亡くなった」という想いを捨てきれないでいる。

 
 もっとも、キリコとカンナは大人の判断で正しい行いだと考えて行動した結果なのだから、最終話で出て来たように、例えば他の人を救うという形で大人の判断による償いもできるだろう。だが、ケンヂの場合は遠い昔のこととはいえ、万引きをしたうえに、濡れ衣を着せられた少年を見捨てるという悪さの代償がこれだった。

 ケンヂはどこまでいっても正義の味方というアトムやウルトラマンのような子供向けの人物設定ではない。そんな人間はいないからこそ、フィクションではロボットや宇宙人が主人公になっているのだ。しかも1997年までのケンヂは家族の迷惑も顧みず、やりたい放題の人生を歩み、バンドの解散事情も含め、すっかり昔のことなど忘れて刹那的に生きている平凡な男であった。


 そういう男が対峙する悪は、これまたプルートゥゼットンのような圧倒的に強くて悪い奴はお似合いではなく、そんなわけで弱さを持ち、ひねくれた人間どもが選ばれた。フクベエも山根も万丈目もカツマタ君もそうだった。その中で最も影が薄いのがカツマタ君だ。

 フクベエもサダキヨもイジメの被害を受けているが、最も悲惨なイジメを受けたのもカツマタ君だと思う。冤罪の末に「死刑」や無視や嘲笑である。殴る蹴るの暴行も本当に受けていたかもしれない。そして忘却...。少なくとも主観的にはもっとも暗い過去を引きずっている男。


 読む限りにおいて、ケンヂはイジメの加害者にも被害者にもなっていない(ババの店先でナショナルキッドを見捨てた件を除けば)。こういう元気な子として注目を浴び続けた少年時代と、自由奔放な青年時代を送った主人公と最終対決する相手として、カツマタ君のような黒子(ホクロではない)的な人物像も悪くない。説明になってないな...。

 国連への報告も難しい。幸いフクベエと同じ顔をしているのだから、フクベエにしておけば多少は説明が楽かな。血の大みそかの写真は6人だけだし。だが、それではカンナが気の毒だ。最後に人類を裏切った”ともだち”の子のままになってしまう。それに自分の万引きも話さないと正確な報告にならない。世界ツアーに行くと言っていたから、分からなかったで済ますか。過ぎたことだし。


 イジメについては、本作品の重要なテーマと考え、この3年間、テレビや新聞に載るたびに注目してきたし、心理学の専門書まで読んだ。でも現代型のイジメはITの利用その他、20世紀とはいろいろ違うそうなので、上手く感想文に活かせなかった。追ってその時が来たら書きます。

 ページ順の感想はこれがが最後になる。いずれまた、もう少しカツマタ君のことを考えようか。何か書くに値することが思い浮かぶと良いのだが。ともあれ、最後の屋上でケンヂは決着を付けて解放された。顔つきが明るくなっているし、おかげで新曲やら求愛やら活動的になってきた。まだまだこの先、いろいろあるだろうが、まずはハッピー・エンドだろう。



(この稿おわり)









 Friends say it's fine. Friends say it's good.
 Everybody says it's just like Robin Hood.

             ”20th Century Boy”   T.Rex















































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