おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

世界 (20世紀少年 第734回)

 ”よげん”の自慢話を終えた”ともだち”は、急に話の展開を変えて、立て続けに一方的な主張をしている。まず次の三つ。
1) 世界はずっと僕の才能を認めなかった。
2) 僕は必要だけど、世界は必要じゃない。
3) ”よげん”なんてウソだよ。全部、僕がやったことだ。

 私はこのうち、1)の「世界はずっと僕の才能を認めなかった」という発言の意図がよくわからなくて、ここしばらく考えておりましたが、やっぱりよく分からん。でも重要な部分だと感じるので黙って通り過ぎるわけにもいかず、今回と次回でがんばって読んでみる。具体的は「世界」とは何か、もう一つ「僕の才能」とは何か。


 世界についての辞書的な意味は、かつて一度、引用したことがあるが、改めて広辞苑をみてみるとたくさん項目がある。「地球上の人間社会の全て。万国。」「人の住むところ。地方。」「世の中。世間。浮世。」「同類のものの集まり」等々。この順番でだんだん範囲が狭くなっていく感じで、最後の意味の例として「学者の世界」が挙げられている。ディズニーの「小さな世界」もこれと同じで、ディズニーに関心がない人を排除すれば小さくて当たり前。

 一番目の「地球上の人間社会の全て。万国。」が、世界地図とか世界新記録とか万国博覧会とかオリンピックなどで意識する世界である。ただし、これは概念であって、実際には全ての人や全ての国が参加するわけではないことは、ワールド・カップや世界大戦の例をみればわかる。国連も同様で、スイスは国連に入っていない。


 でもやっぱり国連が世界最大の組織であることに変わりはなく、”ともだち”はその国連に英雄だの世界大統領などと呼ばれているのに、何の不満があるのだろうか。これはもう一つの論点である「僕の能力」とからめて考える必要があるが、そもそも”ともだち”がここでいう「世界」とは、この万国の意味だろうか。もっと狭いような感じはしないか。

 数日前の漱石草枕」の一節をもう一度、引用してみよう。「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である」。この「人の世」は広辞苑でいうところの「世の中。世間。浮世。」や「同類のものの集まり」程度の範囲である。向こう三軒両隣にちらちらとは、さすが近代日本文学の巨人。漱石は「虞美人草」でも「世間」の意味と戦っている。


 ”ともだち”は世界大統領と名乗りはしても、現実には壁で囲まれた東京にうずくまっている。これだけが彼の世界のようにも思え、そうならば国連やバチカンがなんぼ褒めてくれても単なるBGMであり、身近な人たちに認めてもらえないならば恐ろしく孤独である。今の日本の若い世代の用語で言えば「居場所がない」状態である。なぜこんな心境に落ち込むかといえば、認めてもらっているのは”ともだち”であって、かれ個人ではないからだろう。

 以下これまでの前提どおり、この男はカツマタ君であるという仮説に基づき、フクベエと区別するためにもカツマタ君と書く。この”ともだち”がカツマタ君であることを知っていたフクベエと山根、そしておそらくチョーさんもそうだったが、いずれも鬼籍に入ってしまった。わずかにあと一人、知っている可能性があるとしたらケンヂである。今回の放送がケンヂへのメッセージで終わるのは、そういう意味で象徴的である。


 今の”ともだち”がフクベエでないことにき気付いている者ならもっといる。でも、彼らはカツマタ君であることを知らないはずだ。万丈目は「誰なんだろう」の状態のまま死んだ。長髪は若いころから疑念を抱いていたようだが「どっちでもいいや」であり、高須もそっくりで「誰でもいいの」になった。キリコとカンナも直観的に別人であることを知ったが、でも「誰?」のままである。

 さらに始末の悪いことに、万丈目のみならず後に気付いた13番にしてもヤマさんにしても、信仰や愛情を抱いていたのはどうやらフクベエだけのようで、万丈目は今の”ともだち”を殺そうとしたし、13番は察して逃げて「あの方ではない」と言っている。敵方のオッチョやヨシツネやユキジも、”ともだち”がフクベエで幼馴染だった事実を受け入れているが、カツマタ君なんて死んでいるので関心がない。


 いまさらマスクを取ってみても、フクベエ面(づら)が現れるだけで、「整形か」とか「何人、影武者がいるの」などと言われるだけだ。例えば偉い社長も、名誉職で社内に残らずに辞めれば、その日からただの人、せいぜい過去の人だが、カツマタ君の場合、現役の”ともだち”でありながら、誰でもない人(ジョンレノンの表現に拠れば、”Nowhere Man”か)である。この朝、目覚めた彼の後ろ姿のさみしさが何より雄弁にそれを物語っている。

 誰のせいでこうなったかといえば、彼の主観ではケンヂであり、ジジババのババであり、フクベエと山根なのだろう。さすがにババは多分もう仏さんだろうから、フクベエと山根亡き今、彼の怨念はただ一人残ったケンヂに向かって煮しめたような状態になっているに違いない。フクベエは万丈目に対し、「世界征服と人類滅亡計画」を「復讐」だと言い換えていたが、カツマタ君の計画推進の原動力も同じ復讐心なのか...。

 あの日以来、彼は社会的に死んだままなのだろう。中学生のときは、まだ迷うだけの余地が残されていたが、今や我慢も限界に達して世界は必要なくなったのだ。ただし、その前にケンヂと遊ばないと気が済まない。それまで「僕は必要」である。何だかこのままで終わると、今回はものすごく暗い余韻を引きずってしまうな。

 
 せっかく万国という言葉も出てきたことだし、万博がらみで1960年代のエピソードでも紹介して終わろうかな。主に携帯電話の普及ですっかりおなじみになった「絵文字」であるが、これはケータイ用語として発明されたものではない。


 1964年の東京オリンピックの際、外人さんがたくさん来る初めてのお祭りとあって、案内所や両替所、トイレや公衆電話を示す一目瞭然の標識が必要になった。勝見勝さんというグラフィックにも詳しい文学者が中心となって、デザインを考案し「絵ことば」と名付けてオリンピックに活用され、国際的な評価も得たらしい。

 このいかにも日本人好みの作業には、大阪の万国博覧会でも如何なく才能が発揮されて、追加でいろんな工夫がなされた。1970年発行のアサヒグラフにその幾つかが例示されているが、その欄のタイトルは「だれでもわかる絵文字」になっている。40年以上も前にあった言葉なのでした。




(この稿おわり)






スズメの学校。そろそろ巣立ちか。(2013年5月19日撮影)



































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