おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

人は死んだら”無”になるか (20世紀少年 第421回)

 第14巻の162ページ。まず、山根。「すごい」を連発した後、「一回死んで生き返ったんだ」と言う。次は、フクベエ。不審そうに山根を見ていたドンキーに向かって、「証人になれよ」と命ずる。「みんなに言いふらすんだ、この奇跡を」と重ねて命ずる。

 第12巻でも出てきたし、これからも出てくるが、フクベエは周囲に注目され、話題にされることを、少年時代から死ぬ直前まで渇望し続けた。ドンキーの闖入は願ってもない好機である。ここにいるドンキー以外の3名が言いふらすよりも、ドンキーが語ったほうが人は信用するだろう。


 「みんなに言うんだ、奇跡を見たって」と三白眼で見下ろしながらフクベエは繰り返したが、それまで驚きと困惑に歪んていたドンキーの眉が、キリッと逆八の字に吊り上がった。「嘘だ」とドンキーは言った。宣戦布告。3人の注目を浴びながら、「人が死んだら、絶対に生き返らない」とドンキーは決然と言い放った。そのとおり。少なくとも前例はない。

 続いて彼は、「人が死んだら”無”になるんだ」と語る。今回は、ここから脱線します。子供のころ、死ぬのが怖かったという人は、少なくないのではないだろうか。特に日本人に多い無宗教の人は、神も天国もないことを知っているので、その反作用を個々人で受け止めなくてはならない。死んだら絶対的な無になるのだ。取り返しはつかない。


 哲学者の中島義道氏は、子供のころから死ぬのが怖くて怖くて大変な半生を送って来られたことを、その著書に詳しく書かれている。私も幼稚園児のころから高校生ごろまでの間、死ぬのが本当に怖かったのだが、中島先生と違って、なぜか昼間は平気なのだが、夜、寝床で怖くなる。小学生のころなど寝付けなくて、何度、布団から抜け出して歩き回ったことか。単に夜の闇が怖かったのだろうか...?

 しかし高校のころには、だんだんと恐怖も薄らいできて、更に酒を覚えてからは、まさに依存そのものだが、この恐怖から逃れることができたのだから、酒は私の一番の恩人である。ちなみに、麻原彰晃も子供のころ死ぬのが怖くて泣いてばかりいたという記事をどこかで読んだことがある。死と向き合い続けると、人は哲学者か犯罪者になるのだろうか。


 高校3年生のとき、バートランド・ラッセルの「ラッセルは語る」という本を読んだことがある。ラッセルの哲学は晦渋だが、この本は一般向けで、問答形式になっており比較的、読みやすい。その中で「人は死んだらどうなりますか」という質問があって、ラッセルは簡潔に「土に還るだけです」と答えている。これを読んで、なんとなく安堵したのを覚えている。

 ラッセルは「なぜ私はクリスチャンではないのか」という著作があるくらいだから、キリスト教徒ではないはずだが、彼の「土に還る」という表現は、おそらく旧約聖書からきているのだろう。アダムはヘビとエバにそそのかされて、木の実(手元の聖書にはリンゴとは書いてない)を食べてしまい、神様を怒らせた。

 そして、神さまはアダムに告げた。「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る。あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る。」(創世記3-19、「聖書」日本聖書協会編)。男は塵かー。それに子孫まで罰するとは。こんな聖典抱えて、ユダヤ教徒キリスト教徒もイスラム教徒も大変だ。


 ちなみに、現代の科学によると、人体は土や塵でできているのではなく、その95%は、水素、酸素、炭素、窒素の4元素で出来上がっている。残りの5%が鉄やリンやカルシウムなどのミネラルらしい。どれも、探せばそこら中にある材料ばかりだ。そして新陳代謝は極めて活発であり、一番時間がかかる骨でさえ、約2年ですべての分子は入れ替わるらしい。

 そういう訳で、私たちの体を構成する物質は、しばらく前やしばらく後には、空気であったり水であったり、蛇であったり林檎であったり、もっとはるかな過去や未来においては、どこかでヨダカのように星になって、核融合でもしているはずなのだ。以上は体の材料のお話で、無にはならないのだ。人体はもちろん無になる。せいぜいミイラかお骨が残ることもあるが、あくまで元・人体である(しかも、その一部に過ぎない)。では魂のほうはどうか。


 大学生のころからの愛読書に三木清の「人生論ノート」がある。第1章は「死について」であり、その書き出しは、「近頃私は死というものをそんなに恐ろしく思わなくなった。年齢のせいであろう。」となっている。年齢のせいについては、別の箇所で、「自分の親しかった者と死別することが次第に多くなったためである。」と述べている。

 私もそれなりの年齢になったので、三木のこの気分がよく分かるようになった。それに、この後で彼はとっても良いことを書いているのだ。その大意、以下の通り。この世において、彼ら親しかった者と再会できる可能性がおそらく零であることを私は知っている。

 他方、私の死において、彼らと絶対に会えないとは言い切れない。死後のことは誰も知らないのであるから。では、どちらに賭けるか...。これは三木のささやかな願いである。それはそれ、私はドンキーと同様、自我は無になると確信している。外れたら、その時はその時だ。


 1997年にドンキーは死んだ。おそらく、彼が断言したとおり、彼の魂は”無”になったのだろう。だが、秘密基地の仲間はみんな彼を覚えているし、奥さんも子供も兄弟姉妹(ドンキー○号たち)も忘れないだろうから、それで充分ではなかろうか。私もその程度で充分だ。

 しかし、ドンキーにとって意外なことに、彼を死に追いやった男の手によって、小学生時代の彼が鼻水タオルとともに、そっくりそのままヴァーチャル・アトラクションの中で再現されていたのだ。後になって分かるが、ドンキー少年が夜の理科室で「人が死んだら”無”になるんだ」と言ったとき、ヨシツネとコイズミはもちろん、カンナもその発言を聴いている。だが、その件はまたあとで。



(この稿おわり)




さて、これは何という花であろうか。ちょっとピンぼけ、だな。
(2012年7月7日撮影)




ほうきギター屋さん(同上)