前回に続く。キリコと山根の会話の後半が、どうも私には分かりづらい。第13巻の89ページ、山根にワクチンを作れと督促されたキリコは、そっぽを向いたまま「もし、つくれなかったら...」とつぶやいて、「なんだい弱気だな、君らしくもない」と山根の苦笑いを誘っている。
キリコには作れないかもしれない。今の彼女には、鳴浜病院や大福堂製薬のような施設・設備も、人員も予算もない。むろん、山根と共にここで働くつもりもない。徒手空拳なのだ。そして、キリコは「選ばれた1%」の話をする。「どんなウィルスに対しても、全人類の1%は抗体を持った人間が存在する」という。
私はこれを真に受けて、思いつく限りのキーワードでネット検索をしたことがある。収穫はなかった。どなたか疫学にお詳しい方で、こういう法則なり実験結果なりがあるのなら教えていただきたいです。山根もキリコの言を肯定しているのだが、彼は「1%だけは生き残り、人類は滅亡しない理論だ」と表現している。単なる理論か? 天動説も錬金術も、昔は立派な理論であった。
もっとも、最近の遺伝子研究において、ある病気に罹りやすいタイプと罹りにくいタイプがあるという報道は時々耳にすることがあります。生命は個体レベルの多様性でもって種を存続させてきたのだろう。後に登場するドイツの老夫婦も、幸運の1%に含まれていたのだろうか。
キリコに「あなた、”しんよげんの書”には詳しいわよね」と訊かれた山根は、とても嬉しそうである。執筆協力者だったもんなあ。だが、この日を最後に、彼は死ぬまで笑顔を失ったことだろう。”よげんの書”は第5巻にまとまって出てくるのだが、”しんよげん書”のほうは散発的に紹介されるので、全体像も本来のページの順序もつかみにくいのが難点だ。
ここでキリコと山根の話題になる予言は、世界大統領が誕生するときの選挙の有効得票数が6000万で、反対票は一票もないというものらしい。ユダヤの古い習慣では、満場一致は無効であるというが、お構いなしか。ペルシャ戦役でアテナイが出兵を決めた議会において、反対した議員はただ一人、ソクラテスであった。哲人は死滅するのか。
現時点で人類は70億人もいて、他のあらゆる生命体に多大な迷惑をまき散らしているが(セシウムもストロンチウムも、人間にだけ悪さをするのではない)、世界人口基金が公表している「世界人口白書」の2003年版によると、当時の世界人口は63億105万人。よく数えたなあ。
その1%が約6千万人だとキリコは指摘する。そして、残りの59億4千万人は「あたし達が殺すのよ」と山根に向かって断言した。キリコが面談の最初に「聞いてほしいことがあるの」と言っていたのは、このことだろうか? 第5話のタイトル、「2003年の告白」も、このことだろうか?
いや、多分、違うだろう。この直後に出てくる「”ともだち”の言ってた、人類救済なんて全部、ウソっぱちなのよ!!」というのが、山根に告白し、説得すべき事柄だったに違いないと思う。最近あんまり、嘘っぱちという言葉を聞かなくなったな。
山根はキリコがワクチンを作ると本当に期待していたらしいが、キリコはもう”ともだち”と一切、手を切ったのだ。このままでは、ワクチンは実際に「もし、つくれなかったら」という事態になりかねない。”ともだち”が、それを見越して放置しているとしたら、生き残るのは1%。
キリコが泣いている。しかし涙の言葉で濡れたままではいられない。彼女は自分の過去の所業に大きな責任を感じているのだが、これから為すべきことは、それと比較にならないほどの重責である。キリコは山根からデータを強奪し、このウィルスのワクチンを作って見せると宣言して飛び出していった。
一人取り残された山根は、「そんなこと、ないよな」と2回つぶやいて、キリコが外の世界を見ろと言っていたのを思い出し、リモコンでカーテンを開けた。この物語で、最もまともな目的でリモコンが使われた事例であろう。
開き始めたカーテンの隙間から光が差し込んでくる。さすがにキリコは、夜中の2時には来なかったらしい。「外の...世界...」と山根は言った。そして八面玲瓏白雪の秀峰富士を見た。「その直後、山根は研究室を逃げ出した」とオッチョはカンナに言った。
(この稿おわり)
青空ひとりきり(2012年5月16日撮影)