おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

富士山に月見草は似合わない  (20世紀少年 第375回)

 第13巻には、せっかく最初で最後の富士山が出てくる場面があるので、もう1回、富士山関係で脱線します。太宰治が好きな人は読まないでください。私はこの男が嫌いなのだ。

 小学校のときに読んだ「走れメロス」は良いと思った。しかし周知のとおり、これは彼のオリジナルではない。中学校の国語の教科書で読まされた「富嶽百景」で、最後に観光客に陰気な意地悪をするシーンが出て来て嫌いになった。しかし、なかなか逃げ切れず、高校の教科書で「津軽」を読まされ、さらに嫌いになった。


 小学校1年から4年までの4年間、私は毎朝のように富士山を見ながら登校した。校庭からも見える。田畑と小山の向こうに見える富士は、晩秋の一夜で雪化粧したり、夕焼け色に染まったり、時には頭を雲の上に出し、時には笠をかぶったりと表情が豊かである。

 近くに高い建物が建って今はもう見えないが、5年生のときに引っ越した家の2階の窓からも見えた。今も帰省するたびに、ちょっと歩けば見える場所まで散歩して、私は富士山を見る。ほとんど借景みたいなものだな。


 太宰治の「富嶽百景」はあらゆる意味において、富士山について描かれた文章の中で人類史上最悪最低最弱の駄作である。その冒頭で広重や北斎の描いた富士が実際の形状と異なるとか、中ほどには風呂屋の壁絵みたいに通俗だとか、戯言を並べているのに腹が立つため、この短い駄文をきちんと読み通し得たことがない。

 「サロメ」や「ドリアン・グレイの肖像」といった不気味な作品や、同じ作者とは思えない「幸福の王子」などの童話を残したアイルランドの作家オスカー・ワイルドに、「自然は芸術を模倣する」という名高い箴言がある。子供のころ、この逆説そのものの言葉の意味が分からなくて悩みに悩み、かえって記憶に残った。


 でも最近になって自分なりに納得できる解釈をするようになった。私が桜や紅葉を見て美しいと思うのは、花鳥風月を愛でた平安文学のおかげもあるのではないか。外国人には虫の声が騒音にしか聞こえないそうだが、秋の夜長を楽しめるのも古典の影響が大きいのではないか。富士山が好きなのも、地元の山、日本一の山というだけではなくて、広重や北斎の作品によるところがあるではないか。芸術のおかげで、私の自然を見る目は変わったのではないか。

 この程度のことすら理解も直観もできないのが太宰治という男である。彼の作品群は、大好きという人と大嫌いという人に分かれるそうだが、私は明確に永遠に断固として後者に属し、当の本人が認めている以上、人間失格と断じたい(けれど、彼ほど傲慢ではないので、できない)。


 小学校4年まで過ごした家の近所に、自動車教習所がありました。これがまた無防備な施設で、休業日や夕方以降は立入り自由である。休みの日は確か火曜日で、自転車の両手離し運転を練習中に、バラの茂みに突っ込んで悲惨な目に遭ったのを覚えている。

 夏の夕暮れは、うちの家族もご近所も、ここで夕涼みの散歩をするのが恒例であった。両隣は田んぼで、小さくはかない光の筋を引きながら蛍が舞う。そして、運転練習用の道路脇に黄色い花が、夜だというのに咲いている。私たちは、この花を月見草と呼んでいた。


 当時すでに植物図鑑か何かで、分類上の本名のツキミソウは別種の白っぽい花であり、この黄色い花はオオマツヨイグサという学名の持ち主であることは知っていたのだが、今でも私にとって月見草といえば、すくっと伸びた茎の上に咲くこの黄色の花である。

 太宰はバスの中から、富士山と月見草を見たと書いているが、私が月見草を見ていた時間帯は、暗くて富士山は見えない。頭の中で考え出しただけの創作だろう。百歩譲って夕暮れ時にかろうじて富士と咲き始めた月見草の両方が見えたとしても、この両者がお似合いだと感激したふりをするような、干からびた感受性を私は好まない。


 私にとって富士山に似合うのは電信柱や瓦屋根だったり、刈取りの終わった田んぼや静岡の町を囲むように並ぶ背の低い山々である。口直しに北斎の絵を見よう。私は富士だけの風景画よりも、働く人が描かれている作品が大好きで、幾ら観ても飽きない。尾州不二見原、本所立川、相州石班沢、礫川雪の旦、駿州江尻。富士山には働く人も良く似合うと思う。



(この稿おわり)



Another Version of "Big Wave" by KATSUSHIKA Hokusai