おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

ガラスの地球を救え  (第1397回)

 もう一回、手塚治虫にお出ましいただく。「ガラスの地球を救え」は「光文社智恵の森文庫」から、1996年に刊行された。サブ・タイトルに「二十一世紀の君たちへ」とある。もっとも、手塚本人は発行前の1989年に亡くなっている。

 青少年の時代に、私が大きな影響を受けてけてきた手塚治虫司馬遼太郎黒澤明吉田拓郎ビートルズといった人たちは、もう物心ついたころには大活躍中で、要は私たちの世代の代弁者というより、もっと上の世代が選んだ時代の語り部です。

 そういう風に考えると、高度成長期に生まれ育ち、バブル景気で青春を終えた我々の年代は、誰を何を、後輩に残しただろうか。サザンにユーミンか。エヴァンゲリオンか。庵野さんは同い年だが、支持した層はもっと若いな。


 本題に戻ります。「ガラスの地球を救え」には、記憶の限り、憲法という言葉は出てこない。出てきたとしても、メイン・テーマではない。言うまでもなく、憲法憲法学者だけが語るべきものでもなく、政治家がいじくりまわすものでもない。我々が、われわれにとって何が大切なのかという自覚と関心を持つためには、何だって教材になる。

 本書では、手塚治虫の少年時代を自伝風に書き始め、途中から自身の作品を題材にしながら、様々な問題意識が拡がっていく。まず、少年時代の思い出は「いじめ」という現代的な問題と、「戦争」という過去の遺物であったはずのものが、段々妙な具合になってきている二つの体験談が中心。


 手塚は教育を重視している。しかし、それはいま一部の政治家らが重視する教育勅語的な歪んだ学校教育のことではなく、例えば家庭内の教えであったり(彼のイジメ被害を救ったのは母だ)、先生の個性であったりと、多種多様なものだ。むしろ軍国教育を受けた世代だから、国家権力が子供に押し付ける義務教育に対して、強い警戒心を持っている。

 戦争体験については、すでに先般の回に書き入れた部分の重複は避けるが、本書では何度も、その残虐さに触れ、決して繰り返すな、子供たちを守れと語り続けて飽きることがない。タイトルは、今でいう地球環境問題という側面を強調しているのだが、自然だけではなくて、社会環境も広く含んだ、21世紀を生きる子供たちを取り巻くものを示す。


 自らの作品については、代表作として「鉄腕アトム」、「ブラック・ジャック」、「火の鳥」が登場する。どれもこれも、彼の表現を借りれば、生と死については語りつくせるものではない。こういう点、手塚作品は重要な問題を提示しておいて、あとは自分で考えろという終わり方をする。

 その端的な例が、自他ともに認める「生命の作家」であるにもかかわらず、手塚作品の登場人物は、ときにはあっさり、ときにはのたうちまわって死んでいく。私にとって彼は死の作家であり、本人も大学医学部時代に、死んでいく患者をみて、そのことだけで大きな影響を受けたようなことを言っている。BJの患者も、よく死ぬ。

 その前に、彼の世代は(私の両親と同じくらいで、数年上)、戦争で多くの人が死に、戦後も多くの人が大変な苦労をしたのを、日常生活の中で見ている。前回の生存権の話題をここで改めて強調するが、たとえ文面がGHQに「押し付け」られたものであろうと、日本国憲法の根幹は、この国民の生命と生活が、灰燼に帰した時代に生きた人の心からの叫びであり願いである。


 今、よりによって、その部分から憲法を変えようとしている勢力は、おそらくその時代に苦労せず、親も苦労せず、そういう悲惨な話を聞いても、何一つ感じることのない鈍感な者で、ついでに言うと、本人も先が長くないから、これからの人たちのことなど、実際はどうでもよいのだ(決して、そうは言わないが)。

 このブログと同時並行で、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の感想文も書いている。手塚も司馬も、余りに余りに早死にしたが、長生きしたら、もっと悲惨な思いをしたかもしれない。「坂の上の雲」を戦意高揚の小説と考えている人が少なくないようだが、落ち着いて読んでみれば、あれほど厳しい反戦文学もそうはない。

 本書に出てくる「火の鳥」は、私がシリーズで一番好きな「鳳凰編」だ。主人公の我王は、手塚治虫が創作した中で、もっとも魅力的な人物であり(全作品を読んだわけではありませんが)、おそらく手塚本人でもある。戦争や環境破壊が殺すのは、人間だけではない。手塚のメッセージはひたすらに重く、古びることがない。




(おわり)





先日、大地震があった台湾の花蓮  (2007年2月28日撮影)





拙宅バルコニーの夜明け  (2018年2月14日撮影)



































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