今回からしばらく、報道や言論について考えようと思う。あまりそういう真面目なテーマは、ここで取り上げて来なかったのだが、昨今その手のお堅い話題が増えたのは、このままでいくと私や周囲の実生活(例えば仕事、例えばブログ)にも、悪い影響が出そうだという懸念が深まってきた。下手すると子孫に顔向けができなくなる。
ご承知のように、現時点でも愛知で開催が始まったばかりの展示会が、閉鎖に追い込まれて言論の自由に関する議論が起きている。その件は詳しくないので(つまり、まだ展示物を知らないので)、すぐに話題にはしないが、とにかく考え始める。今回は準備運動。ウォーミング・アップ。
まずは言葉の意味から押さえよう。マスコミと、マス・メディアは同じ意味で使われるときには、大手の報道機関のことを指すと言って宜しかろうが、本来は違う。このカタカナ日本語のいい加減さは、私が子供のころからそうだったので、今更どうこう言っても始まらないが、可能な限り使い分けたい。では広辞苑(第六版)の力を借りる。
マス・コミュニケーション: 新聞・雑誌・ラジオ・テレビ・映画などの媒体を通じて行われる大衆への大量的な情報伝達。大衆伝達。大衆通報。マスコミ。
マス・メディア: マス・コミュニケーションの媒体。新聞・出版・放送・映画など。大衆媒体。大量伝達手段。
この「大衆なんとか」という言いかえは古いな。ともあれ、日常私たちが使う「マスコミ」は、ほとんど後者のマス・メディアを意味しており、情報伝達という行為よりも、その媒体のほうを指す。
なお、英英辞典で「コミュニケーション」を調べると、情報の伝達または交換といったニュアンスで出てくる。実際、カナカナ日本語のコミュニケーションは、情報交換の意味合いで使うことが多い。コミュニケーションが悪いというのは、伝え方が悪いのではなくて、複数者間での意思疎通ができていないという状況です。
しかし、頭に「マス」が付くと、広辞苑のように双方向の概念ではなくて、一方通行なのだ。われわれ大衆は受け手専門であり、何か言いたいことがあれば、伝統的には投書するなり電話するなり、でも、それが公になることは滅多にない。ついでに、言論の自由、表現の自由に関する憲法の条文もみます。とくに、第21条が重要だが、関連する第19条と第20条も並べます。出典は衆議院のサイト。
〔思想及び良心の自由〕
第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
〔信教の自由〕
第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
〔集会、結社及び表現の自由と通信秘密の保護〕
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
漫画「20世紀少年」も、古典的ディストピア小説である「一九八四年」も「華氏451度」も、言論統制が重要な題材になっている。いずれもSFなのだが、サイエンスのフィクションとも言えなくなってきているのだ。
漫画化や小説家にとってみれば、その生きがいにも商売にも直接かかわることだし、実例も豊富で、秦の始皇帝の焚書坑儒から、大日本帝国の検閲や特高に至るまで、暴力的独裁政権には付き物です。ペンが剣よりも強いのは、相手が聞く耳を持っている場合に限られる。
マスコミに関する思い出話を二点。一つは、もう十年ほど前で、当時の小泉純一郎首相が、8月15日に靖国神社に参拝したときの騒動。このとき、私は体調が非常に悪くて、夏休みというより病欠に近い自宅静養をしていたこともあり、なかなか面白いドラマを見た。
参拝した後の記者会見で、記者から「首相がこの日にこういう行動をとると国際問題になるのでは?」といった趣旨の質問を受けたとき、コイズミは二回にわたり、「君たちマスコミが騒ぐからだ」と、はっきり言った。
しかしこの発言は、君たちマスコミにすっかり無視され、当日のテレビも翌日の新聞も、確かめた限りマスコミ云々の部分をカットした。関係者の方々、覚えておるだろうな。すでに、このころから日本の「マスコミ」は論争や反論を避ける傾向が出ていた。後日の回で別件にも触れる。
ただし、一人だけ今は亡き筑紫哲也が、確かTBSの深夜報道番組だったと思うが、これもまた二回、首相は国際問題が「わたしたちメディアの責任だと言いたいのかもしれませんが」というような形で言いかえをしていた。記録はないが自信がある。
このとき、すでに「マスコミ」という言葉が一種、侮蔑的な使い方もされていることを私も感じ取っていたからこそ記憶に残ったのだろうし、だからこそ、その代表的発信者であった筑紫さんも、言い換えずにはおられなかったのだろうと思う。また、上記の辞書的な意味で言えば、小泉より筑紫のほうが正しい。
もう一例。今度は私にとっても意外な人物の発言で、手塚治虫。マンガやアニメではなく、著書に出てくる一節。「ガラスの地球を救え ニ十一世紀の君たちへ」という光文社智恵の森文庫から、1996年に出版されたエッセイ。ガラスの地球とは、おおむねレイチェル・カーソンの「沈黙の春」と同様、地球環境問題を指す。
ただし、内容は本人が少年時代に大阪の空襲で、危うく命を落とすところだったことなども含む、広範で多種な分野における警告の書だ。手塚のことだから、副題のとおりで子供でも読めるように易しく書いている。だが大人向けの発信です。チェルノブイリやオゾン層の破壊といった話柄も出てくる。読んでほしい。
この本の中で、手塚治虫は自らをエンターテイナーとも呼んでいる。漫画家でもあり、アニメーションも大好きだった彼らしい自己紹介なのだが、同じ段落の中に「マスコミ」という言葉も出てくるので引用します。
ぼくはエンターテイナーですから、どうしても”おもしろい”漫画を描かなければ食べていけない人間です。だから、いかにおもしろく描くかに精を出さなければいかないのだけれども、それでもなんとか甘いものをしゃぶってもらった後に、苦いものを子どもたちにしゃぶらせなきゃいかんと、それがぼくらマスコミの役目であると思って描くわけなのです。
手塚治虫が、大友克洋や浦沢直樹といった多くのフォロワー表現者を産み、いまなおその作品が大人に読まれている事情が、よくにじみ出ていると思います。それにしても、マンガ家をマスコミと呼んだ人は寡聞にして他には知らず、しかもその第一人者が自分で名乗っている。
手塚はディスニーのアニメの影響を強く受けており、アニメ会社が倒産するまでのめり込んだ。私も漫画本より、テレビのアニメで手塚作品に親しみ始めたくちです。しかし彼は我々が想定するマスコミの代表格、テレビ局側の人ではなく、あくまで原作者です。でも、情報伝達者という自覚があるから、こういう言葉遣いもしたのだろう。
彼の時代を離れ、現代の情報伝達の世界をながめれば、何と言っても大きな違いはインターネットです。不特定多数への大量情報提供という外形的な性格においては、このブログもそうだし、SNSはすでに個人間の情報交換を前提としたメディアですから、伝統的なマスコミとは異なるが、マス・メディアの機能・性格を含んでいる
では、当方もマスコミなりマス・メディアなりと呼べるのかというと、自他ともに「否」でしょう。社会的な影響力が無いからです。でも、ネットはもう無視できない。したがって、これからマスコミのことを考えるとき、ここでは政治経済社会を動かすことができる存在という条件を付けます。明確な線引きは出来ませんが。
(つづく)
拙宅バルコニーより (2019年8月19日撮影)
I see bad times today
Don't go around tonight
実に良くねえ時代が来た
今夜はうろうろ出歩くな
”Bad Moon Rising” Creedence Clearwater Revival
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