おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

戦場の旗  (第1152回)

 1995年にアメリ海兵隊が発表した「硫黄島の米国海兵隊 その戦闘および国旗掲揚」という資料(のち一部改編)は、そのプロローグにおいて、敵将の訓示を掲載するという風変わりな書き出しになっている。大意、「我等、身を挺し全力を奮いて島を守り抜かんとす」。陸軍中将、Tadamichi Kuribayashi とある。

 島自体には何の価値もないと書いてある。小さな孤島で、黒い噴煙に覆われている。しかし日本軍はこの島に二つの滑走路を持ち、すでに三つ目の造成を始めていた。本格稼働すれば、海兵隊が占領したばかりのサイパンが危ない。一方、奪い取ればB-29の中継地および直掩用の戦闘機の基地となる。軍事拠点の奪い合いになった。


 レンタルが始まったばかりに観たアメリカ映画、「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」(2006年)を、久々に先日、再び観ました。ちょっとした、きっかけがあった。1944年の6月から7月にかけて、日本軍はマリアナ沖海戦と、サイパン、グアム、テニアンの争奪戦に敗れ、うちの伯父はそのとき、そのあたりのどこかで戦死した。

 このとき、日本から援軍の航空隊が出たのだが、戦史叢書等によると、その途上の硫黄島に一部がたどり着いただけで、戦場の援けにはならなかった。この時期だから、もう燃料もなかったのかと思っておったところ、先日読んだ本に、「梅雨前線に行く手を阻まれ」と書いてあった。そもそも素材の金属が欠乏している。これでは勝てん。


 戦争も企業経営と変わりはなく、人と物と金が要る。「硫黄島からの手紙」で二宮君は、パン屋の道具まで憲兵に持っていかれたと怒っている。わずかな現物のリサイクルで戦っていたのだ。対するアメリカは、日露戦争のときの日本と同じで、戦時国債で戦費を賄っていた。それも段々と売れ行きが悪くなっている。第七次の発行に国運が懸かっていた。

 米軍が「パイプ」とも呼んでいたらしい硫黄島の、「火皿」にあたる摺鉢山に星条旗を立てたのち、激戦を生き抜いて生還した三名の若者が、国債の大売り出しの広告塔にされた。簡単にいえば「父親たちの星条旗」は、そういう物語だ。若いころ私はアーリントンで半日過ごしたことがあり、あの巨大なモニュメントを見ているはずなのだが、全く記憶にない。


 この二つの映画は、二本で一つの作品なのだろう。観る順番は公開の順序と同じが良いと思う。摺鉢山の要塞が陥落してからも更に、戦闘が一か月余り続いたという流れからしても、また、「父親たちの星条旗」の最後(エンド・ロールのあと)の画を引き取って、「硫黄島からの手紙」が始まることだし。

 確かに、星条旗にまつわる物語だ。でも、中学生レベルの英語で、理屈を言います。原題は「Flags of Our Fathers」であり、直訳すれば、「われわれの父たちの旗、何枚か」。定冠詞の「The」も付いていない。「Flags」と複数なのは分からないでもないが、米国旗でも二枚限定でもない。原作書籍「硫黄島星条旗」の語り部は一人なのに、なぜ「Our」なのか。


 思い切り拡大解釈すれば、旗は何枚も出てくる。冒頭、ハーロンの家族の家に新聞が届けられる場面で、祝日なのか隣家も含めて、玄関先に星条旗が立ててある。「硫黄島からの手紙」も序盤のシーンに、日章旗旭日旗が並んで立っている。タイトルが複数である以上、ローゼンタールが撮影した写真の旗だけではない。

 ちなみに、最初の小さい旗と、入れ替わりの大きな旗をたてた海兵隊員のうち、上記の資料が出た前年に、主人公の衛生兵ドク・ブラッドリーが他界し、生存者はリンドバーグだけになった。あの重たそうな忌まわしい火炎放射器を背負って走り回っていた勇敢な青年だ。

 最初の旗を揚げたときの様子について、リンドバークの回顧談が残っている。あのポールは日本軍が敷設した水道管だったと原作にある。旗が上がると部隊から歓声が沸き、船隊が汽笛を鳴らし、辺り構わず泣く奴らがいた。みなで見守ったあの光景は忘れられない。


 このリンドバーグは、有名になった写真に写っている、二回目の掲揚に参加しなかった。写真の構図は確かに見事なものだが、一番乗りの栄光は、絵になるポスター向けの一枚のために、片隅に追いやられたらしい。イーストウッドは、この世が理不尽であることをよく知っている。いい歳なのに、それが我慢ならないらしい。

 二回目の掲揚団から選ばれた三人は「英雄」になった。伝令だったレイニーと、衛生兵だったドクはまだしも、前線で多くの敵を殺し、多くの味方を殺されたアイラは、胸の内に深い傷を負った。彼はインディアンで、仲間から「チーフ」と呼ばれている。酋長。


 酒に溺れるチーフを、海兵隊の恥さらしだと罵って再び戦場に送り出したのは、ガダルカナルの上陸作戦を指揮したアレクサンダー・バンデグリフト。当時彼は第1海兵師団長だったが、このときはすでに陸のお偉いさんになっている。

 硫黄島に来たのは、新編成のチーフたち第5師団が左翼の摺鉢山方面、サイパンテニアンを蹂躙した第4師団が右翼の元山飛行場方面で(彼らの来襲を伝える電信を、渡辺謙の栗林司令官が受けている)、第3師団はグアム島を占領したあとに来て、海上の予備となった。


 この映画は原作の書籍があり、共著者の一人がドク・ブラッドレーの息子で、映画でも早速、父親たちの本を書いている。好意的にみれば、彼が旗を複数形にしたのは、栄えある第一回組の栄誉を祝してのものだったかもしれない。

 2016年、海兵隊はその公式サイトにおいて、その肝心のドク・ブラッドレーは第一回掲揚に手助けに入ったものの、第二回の写真には写っていないとの調査結果を発表した。映画が評判になった後で報道されたので、覚えてみえる方も多いかと思う。


 摺鉢山の写真は他にもたくさんあり、それらに写っているドクの服装は、二回目の国旗掲揚の写真とは違っていたし、衛生兵用のバッグを持っている。あの兵士たちの中で、ドクだけは海軍軍人だった。映画でも、セイラ―服を着ている。息子も驚いたろう。これを「発見」したアイルランドの民間人に、「途中で着替えた可能性はないか」とまで訊いたらしい。

 もっとも、それを知って映画を見直しても、殆ど全く違和感はない。たぶん、ドクは帰国してから家族にも戦友にも、この大騒ぎの真相を悟られないように行動し、それがそのまま本となり映画となったためだろう。重傷で入院しており、退院したときには、今さら違うとも言えなかったのではなかろうか。それに肝心の最初の旗を揚げたのだ。


 私は大学で近代日本経済史を専攻したせいか、国家総動員の日本が、金満国のアメリカに工業力で圧倒されたという印象を強く持っていたのだが、敵も意外とやりくりには苦労していたらしい。空襲といい沖縄といい兎に角、急ぎ、原爆はソ連参戦のせいにしているが、案外、運転資金が枯渇しつつあったのかもしれない。

 だが三名の貢献もあって、第七次戦時国債は、計画の倍以上の引き受けがあった由。このあと引き続いて起きた朝鮮戦争ベトナム戦争の金は、どこから出たのだろう。それから、二宮一等兵の手紙は妻子の手元に届いただろうか。

 「戦友愛というのは、本来は戦場における、弾雨下の辛酸の下で生まれてくるもので、連帯感を支える感情である。この戦友愛というものを分析追及していくだけで、兵隊や戦場世界の実情はほとんど解明されてくる。」   

            伊藤桂一 「兵隊たちの陸軍史」



(次回につづく)






桜と山吹  (2018年3月28日撮影)












Blood brothers in the stormy night with a vow to defend,
no retreat, baby, no surrender.

   ”No Surrender”  Bruce Springsteen
































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