どうにも私の文章は長い。長すぎて、なかなか自分でも読み返す気になれず、そのせいで恥ずかしながら誤字脱字が無闇に多い。ということで短くするよう頑張ることにした。話題は性懲りもなく「ボブ・レノン」のどこがボブ・ディランに似ているかである。幸い「元歌」の候補が2曲あるので、今回と次回に分けよう。
今年に入り自伝を読み、コンサートも観て、ようやくボブ・ディランの作品や、人となりに少しばかり馴染んできた感じがする。とはいえ、聴いてすぐ彼の歌だと分かるのは、せいぜい50曲ぐらい。全部で何百曲あるのか知らないが、他は全部、わたしにとって新曲だ。こういう楽しみは、古いファンには味わえまい。
コンサートのアンコール第一曲に、ボブ・ディランはピアノを弾きながら、「風に吹かれて」を歌った。歌い出しの歌詞を聴き取れなかったら、しばらくこの歌だとは分からなかったと思うほどの思い切ったアレンジだった。30年前にLAで野外のライブを観に行ったときは歌わなかったから、初めて実況でお聴きする機会となった。
さて後日。このサイトで鳩が出てくるフレーズを引用したときに歌詞を見ていて、これかなと思った。ケンヂの歌で二番目の文は、「どれだけ歩いたら、家にたどりつけるかな」である。散々悩んでいるときに、こういうシンプルなものが目に留まらないことはよくあるが、その好例だな。
原曲の「風に吹かれて」は短いアコースティック・ギターのイントロに続き、どれだけの数の道を彼が歩いたら、一人前と呼ぶのかいというような意味の歌詞で始まる。これだけではなく、最後まで、何を満たすと何に至るのかという問いが続く。
その答えは全てに共通していて、友よ、風に吹かれている。ボブ・ディランは自伝の中で、ロバート・ジョンソンの歌詞から受けた影響について語る際、「強烈な比喩」という言葉を重ねて使っている。言葉は、言葉どおりの意味だけではないのだ。彼らの歌においては。聴き手が自分で答えを探そうとする限り、詩は古びない。
ちなみに、個人的な印象であるが、「blow」という英単語は濁音から始まる強い発音であることや、ボディー・ブロウという良く知られたボクシング用語からしても、強い風のイメージである。そよ風ではない。そよ風や緑の風は、ジョン・デンバーの担当である。ディランが突きつける問いの答えは、うかうかしていると風に吹かれて飛んで行ってしまうのだ。
それにしても、ケンヂの歌に出てくる「僕」は、家路を急いでいるのだが、どこまで歩けば家にたどり着けるのか分からないと言う。急いでいる以上、また、お気に入りのコロッケを売る肉屋があるらしいので、道に迷っている訳ではない。誰かが邪魔しようとしているのだ。
その危機は目前に迫っている。鬼が笑っても笑わせておくしかないほど、すぐ先まで来年が近づいている。その来年、2001年、輝かしき21世紀の幕開けを飾る年は、平和裡には訪れないかもしれないのだ。地球の上に来る「夜」とは、ディランのいう比喩だろう。大みそかのテロは同時多発だったので、時差の関係で日本は夜だったが、他の国々は昼間から大騒ぎになってしまった。
(この稿おわり)
遊ぼ。大人への道、先は長いが、千里の道も一歩からと申します。
(2016年4月10日、東京は本郷にて撮影)
How many roads must a man walk down,
before you call him a man?
”Blowin' In The Wind” Bob Dylan
Life is old there,
older than the trees,
younger than the mountains,
growin' like a breeze.
ここでの暮らしは古い
あの木立よりも昔から
山々に見守られて
そよ風のように育まれてきた
”Take Me Home, Coutry Road” John Denver
拙宅の壁の画 「かえり道」
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