映画では、ようやく暮れも押し迫り、ケンヂが弾き語りで歌う「ボブ・レノン」が流れてくる。もっとも最初のうちは曲だけ先につくっているところなのか、「ラリラリラ」というレレレのおじさんのような仮の歌詞のままだ。締切の21世紀末まであと数時間というところで、「とりあえず新曲ができ」、曲名はボブ・ディランとジョン・レノンのパクリなので「ボブ・レノン」と安直に決まった。
パクリは全く悪いことではない。法律をおろそかにするつもりはないが、いち早く金になりそうな権利を登録して儲けようという西洋の貪欲な手法が、この世の中を殺伐たるものにした。日本人も散々「マネばかり」と彼らに責められてきたが、最近は基礎理論の分野でノーベル物理学賞等の常連となり(しかも、ずいぶん昔の功績)、ようやく黙ったな。
このブログでもレコードの海賊版の話題を何度か持ち出しているように、そもそもパクリ分野ではアメリカが先駆者であって、中国は遅れて参加しているに過ぎない。しかも、どうせなら「海賊」のほうが余ほどワイルドで格好いいのに、それほどでもないことを自覚して以降、アメリカのみならずここ日本でも、ブートレックなどと称して罪悪感を薄めようとしている。
本家のボブ・ディランも、ジョン・レノンとポール・マッカートニーも遠慮なくマネをしており、上乗せした独自の味付けが良くて人気が出た。誰の影響を受けたのか、どの曲のパクリなのか、彼らはかなり正直に語り残している。古典と無縁の創造というのは、滅多にあり得るものではなかろう。ケンヂも同じで、こうして堂々と言っておけば、何も創り出さない者からイチャモンはつかない。下手だと言われる可能性は残る。
この点で騒々しかったのが、2020年のオリンピックのエンブレム騒動であったろう。真似したとは認めない側と、わずかな類似も断固許さず、そんな暇があったら他にやることがあろうだろうにと思うのだが、あらゆるサイトを調べて先駆者がこしらえた似たものを探し出してくる側が一緒に遊んでいる。どうせ閉会して半年もすれば、ごく少数の限られた当事者以外は誰も覚えていないのに。
前置きが長くなりましたが、「20世紀少年」はそもそも「よげんの書」も「俺たちの旗」の印も、部分的にはパクリなのであり、逆に「しんよげんの書」にもオリジナリティはある。落語も歌舞伎も、みんなそうやって発展してきたのだ。むしろ、これまで何度も困って来たように、「ボブ・レノン」のどこが両先輩のパクリなのか、私には判然としない。
自作自演。アコースティック・ギター。プロテスト・ソング。探せば共通点があることはある。でも、これらは彼らの専売特許でもないし、彼らの発表曲が全てそうだという訳でもない。そうこうしているうちに、ケンヂがパクっていない共通点が先に見つかったので、ようやく本題に入る。ハーモニカ。
今回のタイトルは、ときどきネット・オークションに廉価で出るシングルCDの名前だ。サブ・タイトルとして「Volume.1 Bob Lennon」と記されております。
作品名のおり、原作はカセット・テープに録音されているのだが、再生装置が絶滅寸前のため、発掘後にCD化されたらしい。裏面に「このCDには、オリジナル・マスターテープに起因するノイズがあります。」と了承を求める断り書きがある。
お若い方々に余計なおせっかいを述べると、これがカセット・テープという代物の写真であり、HFというのはハイファイのこと。Fのフォデリティは本物そっくりの意で、天然色みたいなもの。「90」という数字は最長録音可能時間であり、アナログ時代はバイト数も関係なくて、否応なく時間の長さで容量を示す。片面が45分であり、メビウスの帯を利用して勝手に反転し裏も使う。
なお、このカセット・テープの裏側(B面)の絵は、コミックス第8集の第3話に出てくる。カンナがポケットから取り出し、レコーダに入れて蝶野刑事に渡した。ちなみに、本ジャケットの裏面には、小銭が集まったケンヂのギター・ケースの写真がある。白い野球帽が乗っけてある。
さて、CDの中身は映画でおなじみ「ボブ・レノン」の別ヴァージョンである。というよりも物語上の位置づけとしては、こちらが本家であるから、グータラスーダラ言っていない。それ以外の歌詞は同じ。大みそかの夜、そろそろ時間切れになったため歌詞の内容も、分かる奴だけに分かればといいいう当初の方針から逸脱しつつある。誰にも邪魔させないと言いつつ、これから自分が誰かの邪魔をするのだ。
演奏方法は、もちろんフォーク・ギターの弾き語りである。歌っているのが誰なのか、CDにも紙袋にも書いていない。ただし、CDのデジタル情報に「遠藤賢司」とある。ネットでも意見が割れているが、CDに「JASRAC」のロゴが印刷されており、さらに「パクるな」という趣旨で、小学館が著作権を主張する英語の文言も書き入れているので、まさか嘘ではあるまい。エンケンさんが歌っているのだろう。
一本しかないはずのテープが英語表記のタイトルで複数形になっているのは、私が米国駐在当時にラジオでやっていたドキュメンタリー番組、”Lost Lennon Tapes”のパクリだろうと思う。徹底しておる。もっとも、カンナが大量にコピーし、サナエが派手にばら撒いたから複数でも良いのか。
収録曲はイントロのノリが悪くて、いかにも路上ライブらしい。入手して最初にこれを聴いたときに、先ほど書いた「パクリ」から外れているものに気付いて、さすがだなあと思ったものだ。すなわち間奏にハーモニカが流れる。古いアメリカ映画を観ていると、ときどき出てくる楽器だ。安くて小さくて軽いから、しっかりメロディーを奏でる楽器としては最もポータブルな部類に入る。
小学校低学年の音楽で最初に教わったころは、長屋のように穴が並んでいるだけで、私ですら少しは吹けた。でも中学年になって二階建てになり、挫折しました。あんなの吹ける訳ないではないか。案の定、ピアニカに取って代わられた。
司馬遼太郎は随筆集「アメリカ素描」の中で、(前略)「黒人の存在が大きい。かれらの金属楽器への愛着と固有のリズム感がなければ、こんにちのアメリカ音楽の様相は違ったものになっていたはずである。」と述べている。あとがきに昭和六十一年とあるのが、「こんにち」の時代を示している。
ロックも先行してアメリカの黒人が生み出したジャズやブルースやゴスペルの影響失くしては成立しなかったろうし、その恩恵に思い切り預かったのが我々の世代だ。その背景に、長い奴隷制度の歴史を背負っている。そして、ハーモニカも上記の金属楽器に含まれる。ブルースには欠かせない音だ。長くなってきたので、以下次号です。
(この稿おわり)
近くの公園も緑豊かになりました。
(2016年4月15日撮影)
嘘もついていたと 鏡の自分に言った
優しさもあると 我が子を抱いて思った
友達を思って 人を傷つけた
こんな世の中と 自分を捨ててみた
「暮らし」 吉田拓郎 ハーモニカ協奏曲
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