いまでも覚えているのだが、小学校の歴史の教科書だか図鑑だかに江戸城無血開城の談判の絵が載っていて、西郷隆盛と勝海舟が真面目な顔で対座しているという構図であった。数週間前の「八重の桜」にも出てきた。幕末の有名なエピソードである。フィクションとは言わないが、これがすべてではない。
私の手元に「最後のサムライ 山岡鉄舟」(教育出版社)という単行本と、小島政二郎著「円朝」という講談社文庫がある。いずれの本も共通して、勝が西郷に会う前に、実際には鉄舟山本鐵太郎が西郷と会って同じ内容の交渉をしたときの様子が描いている。
すなわち勝と西郷は品川の薩摩藩邸で会っているのだが、その前に鉄舟はそのころまだ駿府(私の故郷の静岡市)まで進駐してきたばかりの西郷に会うべく駿河に向かっている。
詳しくはこれらの本を読んでいただくほかないが、西郷を説得した後、鉄舟は品川から駿府まで敵陣を突破してきたのだから縄をかけよと自ら西郷に伝えたらしい。西郷はそれに対して、まずは飲もうと酒を出してきて二人で飲み、通行手形までくれて、そのまま鉄舟を江戸に帰してしまった。
大河ドラマ「篤姫」では彼女が出した手紙に西郷が大泣きしているシーンが出てきたが、鉄舟によると和宮と篤姫の使者は要領を得ないので帰ったもらったと西郷は語ったらしい。
ではなぜ勝海舟の交渉ばかりが有名なのか。小島さん(もろに鉄舟びいき)によると、明治に入って世の中が落ち着き始めてから、新政府は幕末維新に貢献したひとの論功行賞に着手したらしい。勝はああいう自己顕示欲が旺盛な男とあって、江戸城の無血開城は全部自分の手柄だったような書類を作って提出したらしい。
このとき、論功行賞の最終的な決断をする立場にあった明治天皇の侍従は、西郷隆盛がせめて10年だけでも陛下に尽くしてくれと敵ながら人を選んで頼み込んだ山岡鉄舟であった。命もいらず名もいらず...と西郷が理想の人としたとおりの人物であったらしく、そのまま勝の申請を決裁したらしい。
さらに言えば無血で済んだのは江戸城だけで、うちの近くでは彰義隊が上野に立てこもり、薩長軍と戦っている。谷中のほうから長州の大砲を浴びせられて、寛永寺は燃え落ち、彰義隊は四散した。半日で勝負は決まり。
この作戦を立案し、当日官軍を率いた大村益次郎は、彰義隊が早々に戦意を失って逃げれば敵味方も住民も被害は少なかろうと考えたらしく、わざと後方の御陰殿坂方面だけは兵を置かなかった。はたして輪王寺宮や彰義隊はこの方面から逃げ出した。この御陰殿坂は現存しており、私の家のバルコニーから見える。
今の荒川区あたりの住民は逃げてきた寛永寺の関係者や彰義隊の敗残兵をかくまった。戦闘で亡くなった彰義隊の遺体は放置されたが、鉄舟が埋葬して上野の丘に忠魂碑も建てた。今もそのすぐそばに西郷さんの銅像が犬を連れて立っている。
”ともだち”府の正面で弁慶のように動かないヨシツネ隊長は無血開城に成功した。最前線の司令官であるユキジは職員が大人しく引き上げるのを見届けながら、まずヤン坊マー坊はどこかと尋ねた。双子は円盤のオペレーション・ルームに向かったという。そう、まだ円盤とロボットが残っているのだ。
円盤は製作者のマー坊らに任せておいて、ユキジはロボットを止めるべく、職員の一人に幹事長のところまで案内してと依頼した。ところが、そのころヤン坊マー坊は円盤のドアロックの解除ができず焦っている。
ドアロック? 操作以前にドアを開けないといけないのか。科学技術省長官のマー坊であればパスできるはずの指紋認証が効かない。裏切ったから削除されたな。暗証番号も覚えていないらしい。円盤は”ともだち”が飛ばしたい放題、飛ばすであろう。ではロボットはどうか。
(この稿おわり)
上野山上空の初夏の空 (2013年6月14日撮影)
この文七とお久が夫婦になりまして
麹町貝坂へ元結屋の店を開くという
文七元結でごさいざす
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