おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

クローン (20世紀少年 第709回)

 高須の「おめでた」に接し、私もたまには生殖ということについて真面目に考えてみたくなりました。高須のお腹の中の子は誰か。私の結論から先に言うと、”ともだち”のクローン人間である。だが、せっかくの機会なのだから論証を急がず、今日明日の二回にわけて、まずは取り留めもない話から。うちの近所には桜並木や、サクラの木がたくさんある公園や寺社が多く、季節になるとバルコニーからも桜の花が良く見える。

 ソメイヨシノが多い。東京の都心は野生の木なんてほとんどないこともあり、並木などはほとんどがソメイヨシノである。一斉に咲いて一斉に散る。種が同じだからだけではない。ソメイヨシノはすべてクローンである。巣鴨駅のそばに染井霊園という大きな墓地があるが、あのあたりで江戸時代に品種改良で造られたという説が有力である。


 ワシントンD.C.ポトマック・リバー沿いのサクラは、うちの近所の荒川の土手から移植されたもので、これもソメイヨシノである。あれだけ多いのにソメイヨシノのサクランボを食べたことがある人はいないでしょう。生殖能力もないのだ。ある植木屋さんがソメイヨシノには虫すら来ねえと言っていたのが印象的で、ほとんど造花と言っていいくらいだ。

 植物のクローンを作るのは容易で、挿し木も接ぎ木も古くから用いられてきた。あまりに当たり前なので、昔は一般にはクローンという概念すらなかったはずであり、この言葉が広まったのは、やはり動物でクローンが実験的につくられるようになってからだろう。私が学生のころか、理系の先輩に教わった記憶がある。動物でも稀有のことではなく、単細胞生物細胞分裂も単性生殖も同じ遺伝情報の個体が増殖する。


 うちはマンションの中層階にあるのだが、たまにバルコニーの鉢植えにアブラムシが湧く。風に飛ばされてやってきて、単性生殖したのだろう。たいした生命力だが、そもそも風に飛ばされているうちにそういう機能を持ったのだろう(この因果関係は逆かもしれない)。しかし通常、クローン何とかの実験成功などとニュースになるのは自然界の出来事ではなく、主に哺乳類の人工的な「作品」だ。サルでも成功している。

 そもそもクローンとは何かというと、漫画によれば数年後に庁から省に昇格して、マー坊がトップになるはずの科学技術庁のサイトに定義がある。ギリシャ語で小枝という意味だそうだ。やっぱり接ぎ木の世界から始まったのだな。これによると、クローンとは「遺伝的に同一である個体や細胞(の集合)」を指す生物学の用語である。広義には我が家のアブラムシ一家もクローンである。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shinkou/shisaku/kuroun.htm


 では狭義の人工的なクローンは、どうやって作るのか。同サイトによると、「哺乳類のクローンを産生する方法は、受精後発生初期(胚)の細胞を使う方法と、成体の体細胞を使う方法の二つに大別されます」ということらしい。前者は大ざっぱな言い方をすると、人工的に一卵性双生児を作るようなものか。後者は挿し木と似たような原理で、大人の体の細胞から遺伝子を未受精卵に入れて育てるらしい。

 現在、日本ではクローン人間を作ってはいけないことになっているが、法律で明確に禁止されているのではなく規制があるに過ぎない。代理母も同様である。ついでに代理母という制度(?)も整理しておこう。こちらは厚生労働省の所轄。「代理懐妊は禁止する」というのが同省の公式見解であるらしい。もしかしたら高須に関係があるかもしれないので、該当部分を少し引用します。
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2003/04/s0428-5a.html#3-1-2-6


 「代理懐胎には、妻が卵巣と子宮を摘出した等により、妻の卵子が使用できず、かつ妻が妊娠できない場合に、夫の精子を妻以外の第三者の子宮に医学的な方法で注入して妻の代わりに妊娠・出産してもらう代理母サロゲートマザー)と、夫婦の精子卵子は使用できるが、子宮摘出等により妻が妊娠できない場合に、夫の精子と妻の卵子体外受精して得た胚を妻以外の第三者の子宮に入れて、妻の代わりに妊娠・出産してもらう借り腹(ホストマザー)の2種類が存在する。」


 クローン人間はもちろん代理懐妊にも、医学技術的、倫理的、法的な問題が多い。私は古くて頑迷な人間なので、代理母どころか当事者には申し訳ないが人工授精にさえ心理的な抵抗がある。子供のころ散々聞かされた「試験管ベビー」という言葉の印象の悪さも引きずっているが、何より自然の摂理に反していると感じてしまう。自然とはわれわれが生物であるという科学的な意味でもあるし、子作りとして社会的に不自然だという素朴な感情もぬぐいきれない。

 しかし、そんなことを言い出したら医療もメガネも全て不自然だし、大半の人は私よりはるかに寛容で人工授精はすっかり世に受け入れられているし、クローンと違って人工授精で生まれてきた子は普通の子だし、子供が欲しいという切実な気持ちも個人の自由であることも分かっているが、若い夫婦には真剣に考えていただきたい大問題だと思っているので敢えて書き残します。念のため、反対しているのではありません。


 私がクローン人間を題材にしたフィクションに初めて触れたのは、おそらく大学生のころ読んだ手塚治虫火の鳥」の「生命編」である。たぶん、この作品でクローンという言葉を初めて聞いたか、そうでなくてもこれで記憶にしっかり残ったはずだ。さすがは手塚先生、倫理の問題にさっそく取り組んでいる。ただし、この漫画に出てくるクローンはいきなり大人のクローンをたくさん作るという現在の技術では動物実験でも無理な設定である。

 カズオ・イシグロに「私を離さないで」という小説がある。読んだことはないのだが、去年だったか映画化されたのを観た。おそろしく陰鬱な作品である。唯一の救いは、イシグロが奇をてらって売上を伸ばそうとしているのではなく、人の心というややこしい問題に真正面から向き合っている点である。


 そう、私たちには心というものがある。自我でも魂でも呼び方は何でもよいが、どうしようもなく存在する目に見えない有機物以外の何物かが、個々人の内にある。それは生まれてから今までのあらゆる体験により形作られているようであり、クローン人間は生化学的には全く同じ遺伝情報を持ち合わせていても(これがイシグロ・クローンの悲劇を生む)、全く同じ人生を歩むことは不可能であり、お互い別人格である。

 これを踏まえつつ、高須の胎児は”ともだち”のクローンだと言い張るためには、何のためにそんなことをするのかを説明しないとならない。”ともだち”の子を産んで血筋を引かせたいなら、万丈目の発想どおり人工授精で十分である。材料は少ない。例によって強引な推測になる。これは「本格冒険科学漫画」の感想文であり、「冒険」については感想だけ述べているが、「科学」については何とか解説して自慢したいのです。



(この稿おわり)




仕事場の風景 (2013年4月30日撮影)


































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