おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

招集の行方     (20世紀少年 第136回)

 第5巻の第1話のタイトルは「招集」。11ページから12ページ目にかけて、ケンヂからの「招集令状」が、それぞれFAXと封書により、誰かの手元に届いている。そのすぐあとにマルオが奥さんと、ケンヂからの招集に応ずる件について口論しているので、一見、そのうちの一人はマルオであるかのように思える。

 本筋と関係ないが気になるものは気になる。FAXは、おそらくマルオではない。では誰かというと、ケロヨンであろう。そう考える根拠は、はるか先の第20巻、64ページ目に出てくる。その場面は2000年の秋ごろで、第5巻と同じ時期である。店に電話を架けてきた女とケロヨンが言い争いをしているとき、隣に置いてあるFAX機が動き出す。

 受信したのは、「このマークを俺たちのもとにとりもどそう」というケンヂからの伝言であった。そのFAX機は、第5巻のものと同じである。少なくとも同機種だ。他の誰かが同機種を持っていたのだというような、偶然説は私にとって、あまり魅力がない。浦沢プロのアシスタントさんが、どちらも事務所の機器をモデルにしたというほうが、まだ気が効いている。

 
 問題は封書のほうだ。ヨシツネは第5巻の19ページにおいて、携帯メールで招集の通知を受けているのがわかる。コンチは、第18巻の140ページにより、ハガキで受け取ったことが分かる。

 FAXはケロヨンだとすると、マルオがどのようにケンヂから受信したか分からないのだが、ケンヂが彼のメールアドレスやFAX番号を知らないとか、わざわざ封書を送ったとは思えない。

 同じことは外国にいるモンちゃんにも言える。ユキジは招待されていない。オッチョには必要ない。こうして絞ると、封書を受取りそうな相手は、フクベエとヤン坊マー坊ということになる。


 フクベエだとしたら皮肉な展開であるが、おそらく双子のどちらかだろう。第5巻の35ページ目で、ヨシツネがすっかり容貌と態度が変ったヤン坊マー坊に、「ケンヂからの手紙」を読んだろうと糺している。この二人だけは、1997年に起きたことの背景を知らないはずだ。

 このため手紙で或る程度、説明しなければならないし、実際、ヨシツネとの会話の内容もそれを裏付けている。ということは、つまり、この封書と先のFAXは、2000年の大みそかには役立たなかったのだ。でも最後の最後には間に合ったのだから良しとしよう。


 さて、前回に触れたように、1969年夏の双子との決闘場面の描写が、複数の巻に細切れになって分散しているのは、それぞれの場面で双子との戦いに参戦する少年たちが、大人になって”ともだち”との戦いに馳せ参ずるシーンの導入部分になっているからである。

 第5巻においては、少年時代のヨシツネとドンキーとマルオが、ケンヂとオッチョに加勢に来る場面から始まっている。ドンキーはもういない。だが、大丈夫。第14巻の最後に、私の好きな美しい場面がある。バーチャル・リアリティーに侵入したカンナが、小学校6年の夏休みが明けた日、伝説のライ魚がいる池のほとりでドンキーと会っている。


 人は死んだら無になると語るドンキーに、「人は死んでも記憶に残る」とカンナは「今日も控えめな」胸に手を当てて伝えている。ドンキーはそれなら科学的だと納得し、ふたりはお互い、理科の先生と正義の味方になる約束をして永久の別れを告げ、それぞれ約束を果たした。

 この会話は、バンコク郊外のバス停でオッチョとメイが交わした「大事なものはここにあるよ」という話を彷彿させる。オッチョはこうして翔太君の魂を胸の奥に鎮め、カンナは死んだと信じているケンヂおじちゃんを心の支えにし続けた。


 そのケンヂは後年、ドンキーと親しくなったジャリ池で、釣りそこなった魚を釣り上げるべく、恐怖が支配する東京に戻ってきた。ドンキーはケンヂの中で生きている。みな菩薩になったのだ。

 しかし、マルオとヨシツネには、仕事もあるし家庭もある。だからこそ彼らは、1997年にケンヂを助け損ねた。この3年間、どれほど辛かったであろうか。しかし、失地挽回の機会がついに訪れたのであった。以下次号。


(この稿おわり)



仙台駅前の青空。駅舎の復旧は無事、終わっていました。(2011年10月4日撮影)