おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

風にもまけず  (第1186回)

 3時間の歩きで、よれよれになった。体力を消耗したというより、足が痛くなった。これでは、さらに3時間もの復路を歩けないと思い、残念だったが、滞在時間を時刻表に合わせて短縮し、またしても住民バスのお世話になることに決めた。

 今回に限らず遠出するときは、最終から二番目の便に乗ることに決めている。故障や悪天候のせいで最終便が動かず、現地から動けなかった経験が、覚えているだけで3回ある。若いころは台風の中、野宿したことがあったが、今そういう無理をやったら命にかかわる。


 このため、現地滞在時間は1時間半ほどになったが、仕方がない。大川小学校の近辺は、平日の昼飯時とあってか、私の他には三人か四人のグループが二組いるだけで、そのうち校舎をバックに肩を組んで記念撮影をしていた連中は、早々に去った。もう一組は静かで、ご遺族かもしれないと思った。

 忘れてはいけないことから始める。線香台があったので、持参したお線香を一束丸ごとあげることにした。北上川のほうから吹いてくる強い風に、ライターの炎が煽られて、なかなか火が付かない。線香全部の頭が白くなるまでに、三分ぐらいかかったように思う。なに、風に負けてはいられない。そのあと数珠を取り出して、お参りをした。


 津波を身近に感じた人の話の中に、最初に来たのは突風だったという回想が時々出てくる。ここ大川の地区でも、ゴウッという電車のような轟音が聞こえたという証言がある。当日の私は情けないことに、歩いて疲れて汗をかいたまま風に吹かれたせいか、帰宅してから風邪を引いた(この下書きを書いている今もまだ治っていない)。風邪には負けた。

 そのあとしばらくは、校舎の前などに立っている説明版や昔の写真などを眺めて過ごした。震災前の洒落たデザインの校舎も写っている。隣で同じように見入っていた別組のご老人が話しかけてこられた。七十代ぐらいの男性で、きちんとした身なりの老紳士といった風情である。だが、困ったことになったと思った。言葉が分からない。


 学生時代から今日まで、日本中あちこち旅行や出張で出かけている。47都道府県、全部に行った。そのうち、主に東北と九州の高齢者のみなさんの方言が、全くと言ってよいほど分からない。とくに、現地の人同士の会話は、鳥のさえずりのようにしか聞こえない。

 もちろん、彼らは私が話す標準語をテレビやラジオや教科書で知っている。だが、日常的に標準語で会話を交わすという習慣がないらしく、対話が成立しないのは乗り込んできた私が、郷に入っても郷に従わない過失・怠慢によるものらしい。

 今回も、どうやら写真の説明をしてくださっているようなのだが、まことに残念なことに、そして失礼なことに意味不明。「分かりません」とも言えないし。

 
 ようやく、何とか話題が合ったのは、山が写っている写真を見ながら、右手に見える「裏山」を指さして下さったときだ。私が「あの山に登れば助かったのかもしれないのですか?」と訊いたら、大きく頷いていたのだから、やっぱりヒアリングはできているのだ。

 頷きのお返しのついでに、「この近くにお住まいですか?」と尋ねてみたところ、首を横に振りつつ、少し長い説明があって、またしても困ったのだが、どうやら「上」といいながら裏山の奥のほうを指し、私は「おがつ」という言葉を聞き取った。どこかで見て知っている。


 幸いすぐに思い出した。前掲書「あのとき」の冒頭の地図に、三角地帯から東に山中を進む国道が、「雄勝の峠」を越えて(正確には、その下をトンネルで抜けて)、女川方面に向かう。雄勝湾という地名も出ていた。飯野川のバスが見つからなかったら、この国道398号を石巻から延々と歩く手段も選択肢としてあった。3時間どころではなかっただろう。
 
 被災地にいくときは、念のため同じ規模の地震があったらどうするか、心の準備をすることにしている。地図では裏山に登れるかどうか分からなかったので、この山地に向かう国道を登るつもりでいた(実は、読みが「おかち」だと信じ込んでいた)。

 実際、三角地帯から1キロもなさそうなところにある工場は(つまり、大川小からみて裏山の反対側にある)、ギリギリで津波被害から逃れたそうだ。さらにその先に、避難場所となった入釜谷生活センターがある。そこまでいけば大丈夫でしょう。


 国土地理院さんの地図を引用します。真ん中の十字のすぐ左に、大川小学校の独特の校舎が書き入れてある。すぐ南が裏山で、頂上は標高220メートル。北側(海側)の山も、168メートルあり、これで海は見えないし、住民の記憶の限りでは、これまで津波も来なかったのだ。明治の津波では、雄勝湾沿いで犠牲者が出ているのだが。

 大川小がある場所の地名は、この地図にはないが、「山根」という字(あざ)だと、前掲書「あのとき」に引用されている公文書に出てくる。地形どおりの命名で、この二つの山が峠の西側に、大木の根のごとく川に向かって伸びている。

https://maps.gsi.go.jp/#15/38.546051/141.431015/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f2


 裏山には、ゆるやかな上り坂があって、ただし、入口に「立入禁止」の看板が、二本、立っていた。子供の時分から山歩きは好きだったので、このままの道が続くなら私でも稜線まで登れるだろうなと思った。ただし、私は平時の大人だ。今日は晴れているし、道の入り口もすぐ見つかった。

 一方で津波の当日、雪の降り積もる裏山を上手く登れずにいた子もいたという話を聴いたことがある。無理もない。道のないところでは滑るし、すぐ後ろに津波の轟音が迫っているのだ。その山道は学校から少しばかり距離もある。余りに遅かった。決断と行動が早ければ、逃げる場所と時間はあった。

 東京に帰ってから、今も考えている。どうして地震から津波まで約50分も待ったまま、逃げずにいたのか。当たり前だが、先生方は子供の命も守ろうとしたし、自分たちも助かるつもりだったのは間違いない。記録では、地震の直後に大津波警報宮城県の太平洋沿岸に出ているし、先生や生徒も、ラジオや住民の口から、それを知っていたのは間違いないらしい。必要な情報もあった。


 ここで難しい心理学を語るつもりでもないし、誰かを責めるつもりもない。ただ単純に不可思議なのは、平たく言うと、逃げて空振りだったとしても、何の損にもならないではないか。せいぜい、体力と時間がかかる程度で、それも実地の避難訓練になるのに。

 私は安全衛生に関する仕事をしている。安全管理の大原則は、文字どおり、安全策を採ることだと確信している。もしかしたら、当日の先生方の「安全策」とは、迷子を出して事件事故にでも巻き込まれたら困るという方向に注意が向かったのかなとも思う。

 実際、児童を整列させたり、個人の判断で裏山に登り始めた子を呼び戻したり、保護者が迎えに来るたびに記録を付けたりというのは、この場での集団の規律を保つための作業のように思える。当日の真相は知らないが、こういう整理をしておくのも、いつかどこかで今後、誰かの役には立つかもしれない。

 なお、推測ですが、地方の先生方は自動車通勤が多いのではないか。毎日、同じ道を車で通勤・帰宅していては、なかなか土地鑑が得られない。大川小の場合、ほとんど雪の裏山に登ったことがない先生が、高台がどこにあるかと考えたら、取りあえず三角地帯が、ここよりは高い。



 学校と裏山の間の道を少し奥まで歩いてみた。シイタケを栽培していたという場所に出る。あの日、地震は全員で逃げるという目的からすれば、この上なく好いタイミングで来た(好い、という表現も使いづらいが)。すなわち、午後2時半を回り、「帰りの会」の途中だった由。五年生は起立して、最後の「さようなら」の挨拶をする直前に揺れた。

 例えば仮に卒業式のような厳粛な行事の途中だったり、あるクラスが水泳の授業中で、別のクラスがシイタケの栽培に出掛けていたというような状況と比べてみれば、全学年が帰り支度を終えて集まっていたはずだ。それなのに、逃げなかった。なぜか、どこかで先生方も判断を誤ってしまった。


 裏山の前で道路に座り込み(へたりこみ、というべきか)、持参したコンビニの握り飯とサンドイッチを食べて、少し人心地がついた。校舎は採光のためか南側を向いてレンズのように湾曲しており、その左端の裏山側に、プールや体育館、グリーク・シアターのような野外ステージがある。

 次の写真は、上がその集会場の跡で、鉄筋コンクリートというのは、こういうふうにならないように鉄筋を通しているのだと考えるが、いったいどういう力が働くと、こうなるのだろう。下の写真はその手前にある壁画で、銀河鉄道が走っている。そして、コート姿のシルエット。




 宮沢賢治とは、これも粋なものだなと思ったと同時に、彼は岩手県の人なのに、という妙な郷土感覚を持った。彼の愛読者はどこにでもいるし、なんせ隣県なのだから、自然環境や生活習慣も、似ていることろがあるに違いない。一人だけ命が助かった教諭が、岩手出身の理科の先生だと、どこかで読んだ覚えがあるのだが、どうやら記憶違いのようだ。検索しても出て来ない。

 前にも、このブログで書いた覚えがあるが、私が最初に読んだ宮沢賢治の作品は、小学生用の物語集にあった「風の又三郎」で、一読後の感想はなぜか「怖い」だった。今はさすがに恐ろしいとは思わないが、本作に限らず、私にとっての宮沢賢治は気になる作家なのに、作品が重くて閉口する。むしろ文体は軽やかで平易なのに、不思議な人だ。


 帰路は午前中に来た道を30分ほど戻り、愛宕神社前という停留所から、事情を話して住民バスに乗せてもらった。規定運賃の100円も払いました。飯野川に戻り、ここからバスを乗り継いで戻った。中継した場所は、石巻赤十字病院で、災害の記録にも出てくる。診療だけではなくて、御遺体の安置所にもなったらしい。

 ホテルでウィスキーを飲んだが、なかなか酔えない。ネットであれこれ検索していたら、先述のとおり、大川小学校の民事訴訟は、被告の県と市が上告したとある。最高裁か...。


 こうして対立構造になればなるほど、ご遺族が一番知りたいと仰っている小学生たちの最後の様子を、事実関係だけではなくて肉声で、教育関係者等から聞き出すのは難しくなってしまうように思う。これも仕方のないことなのか。

 学校からの帰り際、他の訪問者も去って、一人だけになり、しばらく校舎の遺構をみていた。二回の渡り廊下の壁に丸い窓が切り抜いてあり、野球のボールのデザインになっている。今の私には何もできないが、せめて忘れないでいるからね。カムパネルラたちのことを。




(おわり)



裏山の森と青空  (2018年11月13日撮影)












 ・・・・・・・・・・・
 あゝ友たちよはるかな友よ
 きみはかゞやく穹窿や
 透明な風 野原や森の
 この恐るべき他の面を知るか

    宮沢賢治 「その恐ろしい黒雲が」の一節  

































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