おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

私のサッカー史 【世界史編】   (20世紀少年 第300回)

 モンちゃんが屋上でサッカーのワールドカップを話題にしてくれたので、せっかくだから今回と次回は、更新300回を記念して連続脱線します。サッカー史といっても、別に私は元サッカー選手ではない。小学校から大学まで、何百回も何千回も草サッカーを楽しんだだけの元サッカー少年に過ぎない。だから正確には、サッカー観戦史だな。

 サッカーに関しては、生まれた場所と時代に恵まれました。生まれも育ちも静岡で、物心ついたころにはすでにサッカー王国であった。優秀で熱心な指導者が多かったらしい。静岡はほとんど全く雪が降らないのも有利である。サッカー選手は女にもてる。清水や静岡の街にはサッカー野郎を愛し、遊ばれ捨てられた娘たちの悲話が無数に語り継がれていると聞く。

 そんな土地柄なので、地元のテレビ局も盛んにサッカー放送をしていたものだ。ペレやフランツ・ベッケンバウアーや釜本が現役の時代である。「ありゃ、ペレは、まだやっているのか」などと、罰当たりな感想を抱いたことを覚えている。”フライング・ダッチマン”ことヨハン・クライフ爆撃機ゲルト・ミュラーも同時代の選手です。


 学生時代はもっぱらラジオを聴いていて、あまりテレビを観なかった。親戚が捨てそこなったのを頂いたボロボロの白黒テレビしかなかったこともある。そんなころ、何気なくつけたテレビでやっていたスポーツの中継が、実はとんでもない名勝負だったという幸運を2度、経験している。

 一つ目はテニスの全英オープン。1980年のファイナルは5連覇をかけたボルグとマッケンローが4時間にわたる熱戦を繰り広げた。勝ったボルグが、ウィンブルドンセンターコートにひざまづいて天に祈りを捧げた、あの試合である。この決勝戦の録画を10年ほどのちアメリカのケーブル・テレビで観た。さらに10年ほどのち、バンコクの空港ロビーでも観た。みんな大好きなのだ。


 もう一つはサッカーである。深夜放送だったのだが、最後まで観た。見届けるべき試合であった。先制したのは西ドイツ。フランスが追いついて延長戦。フランスが2点を連取して強敵を突き放したかにみえたが、西ドイツが見事、追いついた。同点弾は天地を切り裂くかのようなオーバー・ヘッドの一撃だった。

 決着がつかずPK戦になり、勝負は時の運、西ドイツが勝った。私は勝者の姿を全く覚えていないが、負けたフランスの選手たちがピッチの上をごろごろ転がりながら泣いていた姿を今も鮮明に覚えている。スポーツ観戦の感動は、勝者が得るものの大きさよりも、敗者が失うものの大きさによる。


 その十数年後、中学・高校とサッカー部に所属していた旧友と酒を飲んだときに、この試合の展開を話してみたところ、それはワールドカップ史上、最高の準決勝と呼ばれる試合であったらしい。ゲルマン魂と聞いて、その試合を思い出さない奴は素人であるらしい。

 私は素人の域を脱すべく、早速、「ワールドカップ」というシンプルなタイトルの本を買ってきて読んだ。著者の名を失念したが、抑制の効いた筆致でエピソード豊富な名著である。以下は、その本を読んだ私の頼りない記憶と、ネット情報による。その試合は1982年のスペイン大会のセミ・ファイナルであった。


 動画サイトで観ると、西ドイツの先制点は、Jリーグ発足時にジェフユナイテッド市原に在籍したリトバルスキーである。彼とリネカーという紳士が、日本のプロサッカーの開幕に立ち会ってくれたことを私は心から嬉しく思う。二人とも、私と同い年。フランスが同点に追いついたPKを蹴ったのは、後に日本代表が初出場を果たした1998年フランス大会の運営責任者になったプラティニ

 西ドイツは決勝でイタリアに敗れている。会場はスペインの誇り、レアル・マドリードの本拠地、サンチャゴ・ベルナベウ。得点王はイタリアのロッシ。当時、イタリアの大統領は、第二次世界大戦の末期にムッソリーニヒトラーに反旗を翻したパルチザンの闘士だったペルティー二というご老人で、決勝戦を観にスペインまでお出ましになり、帰路は大統領専用機にチームのメンバーを載せて帰った。やるよな。

 
 なお、FIFAワールド・カップは、1982年のスペイン大会で、初めてPK戦の制度を導入した。それまでは抽選だったそうだ。もっとも、予選リーグの勝者決定で抽選が行われたことはあったが、決勝リーグでは一度も抽選はなかったらしい。そして、スペイン大会で初めてPK戦にもつれ込んだのが、この西ドイツ対フランスの準決勝だった。私は偶然、史上初のPK戦を観たということになる。


 この大会、予選リーグでイタリアに敗れ、決勝トーナメントに進出できなかったのはアルゼンチンとブラジルである。役者はそろっていたのだが、初出場のマラドーナは、悪質なファウルで一発退場を食らった。さすがのデビューです。ブラジルは優勝候補だったが、攻撃的過ぎて余計な点を失った。ミッドフィールダーは昨年末に亡くなったソクラテス、監督として鹿島アントラーズの黄金期を築いたトニーニョ・セレーゾ、日本代表を率いたファルカン、そしてジーコという顔ぶれだった。

 サッカーはナショナリズムを激しく刺激するスポーツである。ところが私は、外国人選手のほうがずっと印象に残っている。ここに挙げた名前以外にも、バッジョストイコビッチアドリアーノジダン、カーン、メッシと切りがない。


 1982年大会の主催国だったスペインは、欧州屈指の強豪でありながら、なぜか、あの独特な意匠の優勝カップに長いこと縁がなかった。その念願をようやく果たしたのは、前回の2010年南アフリカ大会である。あのスペイン・チームのしなかやで強くフェアなプレーは忘れられない。

 スペインの試合でレフリーを務めた西村雄一さんによると、スペインの選手たちは自分達がファウルを取られても、「いいジャッジだ」などと笑っていたらしい。まさに「レアル」、スペイン語で「王者」の風格というべきであろう。さあ、待ち遠しいな、2014年。


(この稿おわり)

 


いつの日か、ワールドカップを福島に招致しようぜ (2012年3月23日撮影)