おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

VA緒論     (21世紀少年 第246回)

 これから小欄では、そもそもこの物語に出てくるバーチャル・アトラクション(VA)がどんな仕組みなのか、また、何が目的なのか、できるだけ究明しながら進めたいと思っている。昔からメカが苦手で、ITと言う言葉を耳にしただけで寿命が縮む気がする私にとって、決して楽しい作業ではないのだが、避けて通れないテーマだと思うので仕方がない。

 VAには、幾つかの「ステージ」がある。普通のコンピュータ・ゲームにも、ステージを複数持つものが多く、より簡単なステージをクリアしたり、累積点数が一定以上に達すると、難易度や娯楽性の高いステージに移行する。個別のステージは独立した閉鎖的な環境であって、相互間の勝手な(アプリとやらの所定のルールにそむく)往来はできない。


 ところが、どうやらVAのステージはゲーム器のそれと似て非なるものであるようだ。或る程度、独立した環境であること自体は、後述するが随所にみられる。逆に、勝手知ったる者は、あるステージから別のステージに自由に行き来できることは、第13巻で”ともだち”が実行しているし、「21世紀少年」ではケンヂが本人の意向に拘わらず、いきなり別ステージに放り込まれている。

 このステージ間のいきなりの「飛躍」は、VAの操作者が随意にできるのか、それともVA内部に落とし穴のように仕組まれているのか、その両方なのか、今の私にはわからない。現時点で言えるのは、現実に似せながら「飛躍」が存在するゲーム(?)であることと、複数の「ステージ」により構成されていることだ。


 後者は、第14巻の131ページ以降の描写で明らかであり、操作画面では六つか、あるいはそれ以上の数のステージのモニターが、二次元で並列表示されており、迷路ゲームみたいに、抜け口に辿り着くと別のステージに行くこともあるらしい。むしろ、ケンヂが秘密基地からボーリング場に移動したのは、この回路を経由したのかもしれない。空間のみならず、時間も跳躍するらしい。

 
 VAを熟知していない侵入者は(”ともだち”以外は、万丈目も含めて、皆そのようだが)、どうやら、そこから抜け出ることさえ自由にならない。操作者以外の第三者または本人が強制終了させると、流血の大惨事になる。「正義は死なないのだ」と単純に信じ込んでいないと、生きて還れないほど厳しい。

 そもそも、VAに入っている間、本人の体は、どうやら土俵のようなアトラクションの床に置き去りにされたまま動かない様子であり、これはコイズミが挑戦したシューティング・アトラクションや、後日”ともだち”と自分の関係を知ったカンナが八つ当たりしたファイティング・ゲームのように、操作者として動ける訳ではない。

 ただし、完全に意識を失っているわけでもないのが、ややこしい。中に入ったまま外で「動いた」例は、パンチアウトしたケンヂや、「万丈目」、「理科室」などとつぶやいているヨシツネがいる。

 VAに入る本人(正確にいえば、本人の外見そっくりに3Dで再構成された仮想の肉体に、本人の意識が入りこんでいるらしきもの)は、VA内部で主体的に行動している点、ゲームを「する側」だが、結局、やめるかどうか自由にできないという点においては普通のコンピュタ・ゲームにおけるプレーヤーの「アバター」と変わりがない。


 また、少なくとも現代のバーチャル・リアリティーは、現実と或る程度は似ていても、一目瞭然で虚構である。しかし、VAは「現実のようで現実じゃねえ」ほどに、現実と似ているらしい。それは高度な3D技術による疑似空間の構築が巧みなだけではない。

 通常のバーチャル・リアリティーは、IT技術により構成された仮想現実であるが、ほぼ全て視覚、せいぜい聴覚しか再現できていない(と思う...)。だが、このVAにおいては、他の知覚、すなわち「空気が悪い」とか「暑い」とか「お腹が減った」とか「ヤブ蚊に刺されてかゆい」とか「カレーライズが不味い」とかいった、触覚、味覚、嗅覚まで再現しているのも、相違点として挙げられる。


 現実じゃねえのに現実と似ているのは、第10巻でサダキヨがコイズミに語ったところによると、実際に存在する写真を基に、CGで登場人物を造型していることも一因なのだが、五感すべてに現実感を与えているというのは尋常の完成度ではない。VAがタイム・マシンでないことは、「嘘」の多さや、ステージ間の飛躍で明らかなので、そこはSFと割り切るほかないか。

 それでもまだ疑問が残る。首切り坂の事件にしても、理科室の夜にしても、第四中学校にロックが流れた日にしても、現実と同じ(あるいは、そっくり)なのが登場人物や背景の外見だけではなく、出来事そのものまで似ているからこそリアリティー満点で、かつ、紛らわしいのがVAである。


 出来事の再構築は、写真をCGでプログラミングするだけでは勿論できない。現実らしくするためには、写真や文書などの記録や、誰かの記憶が必要である。換言すればVAのあらゆる細部において、出来事は、記録によるかか、記憶によるか、嘘のいずれかである。明らかな嘘はここでは問題にしないが、嘘ではなさそうな出来事の「出典」は何か。

 フクベエが全てを知っているはずがない。次回語るであろう、コイズミが経験する軟式ボール取り戻し作戦や、ヨシツネが出会った神様や少年時代の本人、カンナが出会ったジャリ穴のほとりのドンキー、ケンヂが出会った少年ケンヂやサダキヨの転居やモンちゃんや若き日の万丈目の姿、これら全てをフクベエが見て、誰が何をしているか知っていたか?


 百歩譲って、フクベエが聞いたり読んだりで情報を得て、想像力も駆使して再現したと考え得るか。あるいは、フクベエ以外の誰かの記憶も、脚本の材料になっていれば可能か。このあたりは、今の私には、とても全体の整理がつかない。できるだけ場面場面において、各論で説明を試みるほかあるまい。

 ともあれ、コイズミが送りこまれた2014年時点のVAは、フクベエ健在時点のものであり、ほぼ全て、彼の意向や好みが反映された仮想現実であると考えても、大きな間違いではなかろう。技術的な問題の解説は横に措いておき(率直に言えば、以上が限界なので、当面はこれで諦めて)、コイズミの後を追おう。


(この稿おわり)



新潟の温泉旅行で見つけた酒。美味し。
(2012年1月15日撮影)