イシは弓矢づくりの名人で、また狩猟の達人だが、私たちが思い描くような職業としての猟師ではない。彼と彼が属する村の衣食住を支える日々の仕事として、熊や鮭を狩る。
今回は本の読書感想文で、書籍名は岩波現代文庫の「イシ」、副題に「北米最後の野生インディアン」とある。英語の原タイトルは、「二つの世界にいたイシ」といったところか。
たまたま見つけた本である。先ごろ話題にした「闇の左手」のアシュラ・K・ル・グインの話題を、ネットで拾っていたら出て来たのだ。彼女が再版時に序文を寄せている。この本の著者シオドーラ・クローバーは、グインの実母です。
この母上もすごくて、五十代半ばで文筆活動を始めたらしい。その夫がイシの友人にして人類学者のクローバー博士で、妻にイシの物語を伝えて間もなく世を去った。私が生まれた1960年のことで、翌年にこの本がアメリカで刊行され、日本語訳は1970年に出ている。文庫になって今なお売れている。
あまり詳しくは書かないでおこう。ぜひ読んでいただきたいからです。副題などにあるように、イシは北カリフォルニアの山岳地帯に暮らしていたインディアン、ヤナ族の一族であるヤヒ族の男で、知られている限り、居留地に移った同胞を除く最後の一人となった。青銅器も鉄器もない石器時代の生活をしていた。
上記の「二つの世界」とは、彼の一族が長年暮らしていたその地域・社会と、一人残され山を下りてから暮らした近代文明のアメリカのことだ。ただし、彼は確かに地理的・物理的には転居したのだが、これから述べる事情により、私としては後半(というより晩年か)のイシは、その両方の世界に住んでいたような感慨を覚える。
時代は19世紀から20世紀にかけてのことで、西部開拓史が終わりを迎え、フロンティアが消滅するころ、進出してきた白人の一部により、北カリフォルニアのインディアンは、ほとんど根こそぎと言っても良いほどの方法で殺された。一人逃げのびたイシは十数年後、白人の敷地に迷い込んでしまい、不法侵入か何かで、とりあえず刑務所に入れられてしまう。
そのあとで、クローバー博士らが関わっていたバークレー市の博物館に移り、最初は展示物のごとく、やがてその従業員として働くことになる。同書によれば、インディアンは、当然ながら個人の名前を持っているが、第三者に対して自分の名はもちろん、他者の名も口に出さないそうだ。
東洋の諱と少し似ているが、さらに徹底しているのは生前のみならず、死後も封印されている。このため、イシもその家族らも、とうとう今に至るまで名前が分からない。「イシ」とは、ヤナ族の言葉で「人」(ひと)の意味らしく、ようやく英語を覚え始めた頃に、おまえは何者だと訊かれて、こう答えたものだろう。間違いはない。
彼は潔癖で働き者で、誇り高く力強かった。みなに好かれた。その具体的な様子は本でご覧いただくとして、彼がしばしば口にしたという言葉が興味深いので、それを二つ話題にします。いずれも、われわれの分類では、挨拶のことばということになるのだろう。
一つは、「Everybody hoppy?」というもので、彼は生得の言語にない発音は独自に言い換えていたため、ハッピーがホッピーになっていたらしい。ちなみに、特に東京近辺にお住いの方々で、賑やかな酒場が好きな方はよくご存じだと思うが、あの「ホッピー」と日本語の訓も、アルファベット表記も同じである。私は同社を訪問したことがあり、飲み物と併せて愛着がある。
彼は博物館の中で、掃除の仕事などで働いたり接客のために歩き回るとき、会う人たちにこの「Everybody hoppy?」と訊いて回るので、仕舞いに周囲が同調して真似るようになったというから、のどかな光景が目に浮かぶようである。
もう一つ。「あなたは居なさい、ぼくは行く」。読了後に幾つかのサイトを読ませてもらったら、これがイシの今わの際の言葉だったと書いてあるものが多いが、たぶん残念ながら正確ではない。著者は最後の頁に、イシが「この世から姿を消した」とき、「彼の友人とその世界への告別は、彼の好んだ別れの挨拶と同じく物静かなものであった。」と書いているだけだ。
著者はイシと会ったことがなかったし、出張中だった夫のクロバー博士も、イシの臨終には立ち会わなかった。だから、本当に最期に何と言ったのか自分たちは聴いていないし、上述の書き方からして、多分これは比喩だろう。
彼の所属した文化のしきたりなのか、イシはもう会えそうもない人には「さようなら」と言ったらしいが(一箇所だけ、駅で見送る人たちに、そう言っている)、彼にとっての「Everybody」たちの席から離れるときなどは、「あなたは居なさい、ぼくは行く」と言って立ち去るのを礼儀とした。
小学生のころ、ルパンのシリーズが好きで(三世ではなくて、初代怪盗のほう)、フランス語には、もう会えそうもないときに使う「アデュー」と、取りあえずのお別れに使う「オルボアール」があると本に書いてあった。後者はアメリカ人の場合、親しければ「See you.」になる。私の気に入りは、コリアンの仕事仲間に教わった「Bye now.」だった。
思えば日本語も同じようなもので、誰でも知っている「さようなら」は、演歌やフォーク・ソングの場合、永遠の別れを告げるまでとっておく離別の宣言であり、普段は「またね」とか「じゃあね」とか「お疲れさま」とか、また会う日までの保留が含まれる言葉を使う。
イシが生まれ育った共同体の宗教では、ヤヒ族は今生を終えると、あの世というか次の世というか、再び別のどこかでヤヒ族のみんなと共に暮らすのだという。だから、最後の言葉は「またね」の意味合いではないはずだ。本当のお別れである。これは辛いが、しかし次の楽しみが待っていればこそ、イシは機械文明に放り込まれても、二つの世界を同時に生きたのだろう。
機械文明も悪いことばかりじゃなくて、写真が幾つも残っている。特に本書に掲載されている川で水泳中のイシの笑顔は、これを見るだけでこの本を買う価値があるというものだ。イシの呼吸器は澄んだ空気を吸うようにできており、都会で彼は結核に罹って亡くなった。まだストレプトマイシンが無かった。
イシが歩いたバークレー、サクラメント、サンフランシスコといった町は、二年ほど駐在していたときに何十回も何百回も行ったのに、そのころまだイシのことを知らなかった。もしかしたら、手塚治虫が短編マンガにアレンジした「原人イシの物語」を、遠い昔に読んだかもしれないが、全く思い出せない。
彼の一族が使う言葉のいくつか、及び、きれい好きな生活態度が、日本人と似ているという指摘が出てくる。本当に関係あるのかどうか知らないが、何となくうれしい。もう今の私の体力財力では、とても北カリフォルニア山中に旅行などできないが、それでもベイ・エリアで青い空や夏の夜霧、高い木々や山火事を眺めて暮らしていた日々は忘れない。
(おわり)
ちょっと風変わりな夕焼雲。
(2016年9月6日撮影)
You made me cry,
when you said, "goodbye".
”Ain't that a shame?” Fats Domino
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