おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

20世紀乗り物 (20世紀少年 第893回)

 つい先日、仕事で群馬県太田市に行く用事があった。太田は初めて行く土地であったが、スバル町という地名もあるほどの自動車スバルの地である。工場や物流拠点が点在している。スバルには愛着がある。かつて父が働いていた会社なので、我が家の自家用車は常にスバルの中古車であった。

 スバルと言えば軽自動車である。遠い昔、近所の家にも、そこらの道にもテントウムシと呼ばれた独特の車体のスバルを良く見かけたものだ。現地で年齢の近い男の先輩二人に、「スバルと言えば軽です」と言ったら異口同音に「360ね」という反応が返って来た。そうこなくっちゃ。高度経済成長を駆け抜けた超軽量車なのだ。


 今どきの車はみんなデザインが似ていて、区別がつかない。区別をつける気にもなれない。おそらく低燃費や安全性を追求すると物理的に似たような形に収まってしまうから仕方がないのだろうけれど、かつての多種多様な自動車群を知っている者としては少し寂しい。

 映画「20世紀少年」には、これまた昔懐かしいオート三輪が出てきたことは、前にも話題にしたかもしれない。コイズミに未舗装道路の土ほこりを浴びせて走り去った。もう絶滅したのだろうか。


 ”ともだち”が再建した昭和時代の東京には、リヤカーが登場している。サナエとカツオがテレビの修理のため淀橋まで往復した。後にオッチョさんも載せているが、さぞかし重かっただろう。リヤカーも見なくなって久しい。最後にリヤカーに乗ったのは、もう10年以上も前だろうか。

 トゥバルという南太平洋の小さな島国に出張に行った際、おそらく当時その島で唯一の車だったであろう小型トラックにリヤカーを引かせて、先方政府の要人とわれら出張団を調査の現場まで送ってもらったのだ。行けども行けどもココナツの森と、その向こうに垣間見えるラグーンの緑色の海。


 その途上、リヤカーの上で周囲のココナツの木々を見ながら、「この島に野生動物(ワイルド・ライフ)はいるのですか」と同乗の教育省次官補に訊いてみた。

 次官補は徒歩で我らを迎えに来た際、裸足に棘が刺さったらしく足の裏が血にまみれている。棘を抜きながら彼が言うには、「いない。ワイルドな女ならいるぜ」というご返事であった。残念ながら時間の関係で見損なった。


 漫画「20世紀少年」で活躍する乗り物と言えば何たって、主人公ケンヂが「あのころ、何たって自転車がなければ話にならなかった」と語ったように自転車である。登場回数は少ないが、ケンヂたちがドンキーを振り切ろうと走って失敗に終わっているのが最初の出番だ。

 映画でケンヂらがドンキーに追いかけられながら自転車で逃げている道沿いの電信柱に、「新宿区若葉町八丁目8」という地番の表示が出てくる。

 「若葉町八丁目」は23区内には存在しないと思うが(でも少なくとも調布と立川と横浜と柏に若葉町はある)、新宿区に若葉という町名が四ツ谷の辺りにあって、私もたまに仕事で近くを歩く。血のおおみそかでは巨大ロボットも近くを歩いた。


 大阪万博に行く決意をしたドンキーは、しかし交通費がなく、いくら彼でも徒歩では往復のみで夏休みがつぶれてしまう。ドンキーが必要としたのは無料の交通手段と励ましであった。そうと決まれば相手は一人しかいない。後にその相手は失意に沈んだが、友達に俺のを貸そうかと言ってもらった。持つべきものは友なり。双子のラリホーも忘れがたい。

 映画でも自転車はよく登場する。「E.T.」では自転車による月食という珍しいものを見た。「キッズ・リターン」のラスト・シーン。「ローマの休日」のプリンセスも「明日に向かって撃て」のポール・ニューマンも、いつになく楽しそうだった。小説では「二十四の瞳」の大石小石先生の通勤手段になっている。


 ところで鈍くさい私は、小学生になってもなかなか補助輪が取れず恥ずかしい思いをしていたのだが、あるとき一念発起して友の手を借りることにした。走るのが速くて近所に住んでいる同級生の三浦君である。われらは冬の田んぼを訓練の地に選んだ。自転車が走れる程度に固く、転んでもケガをしない程度に柔かい。昔の自分の方が知恵があった。

 2年生と3年生で同級だった三浦君の家は母子家庭だった。当時の学級名簿は両親の名も記載されており、三浦君だけ父親の欄が空白だった。彼の家にときどき遊びに行ったが、六畳一間と台所しかない。その六畳には家具がない。テレビどころか炬燵も食器棚もない。近所で唯一、我が家よりも貧乏そうな暮らしをしていた。

 うちの実家は不思議なほど差別意識というものを持たなかった家庭だった。母によれば母方の祖母が商家の出で、よほど躾けが厳しかったのだろう、決して人を見かけや家柄で差別するようなことをしなかったという。3年生の私の誕生会にはもちろん三浦君もお招きした。偏屈な少年だった私の数少ない本当の友達だった。


 その日、誕生日のケーキと一緒にリプトンのティーバッグでいれた紅茶を飲んだ彼は、「これほど美味しいものを飲んだことがない」としみじみ語り、感動した母がおかわりを入れた。特訓はその後の冬だったと思う。三浦君が自転車の後ろの座席を両手で押さえながら、ヨタヨタ運転する私の自転車が横転しないように稲刈りの済んだ田んぼを走り続けた。

 それでもやっぱり時々転びながら、私たちは大いに笑って夕方まで練習を続け、その甲斐あってようやく私はまともに自転車に乗れるようになった。彼とはその後、違うクラスになり、さらに違う中学に進んだため自然と疎遠になってしまった。今も元気でいるだろうか。



(この稿おわり)




スバル360富士重工業のサイトより。


唯一手元に残る三浦君の写真。昔の小学生の面構えだ。










 二人乗りをした自転車のその後ろ
 振り返ることもなく僕はそっとつぶやいた...

      「二人乗りの自転車」   たまには、AKB48





































.