おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

雨のリバプール (20世紀少年 第664回)

 前にも一泊二日でリバプールに滞在したことについて書きました。同市に着いたときはもう午後遅くで、町の手前のマクドナルドで遅い昼食をとった。このとき4歳だった息子のイギリス旅行の思い出は、このハンバーガーとストーン・ヘンジだけだそうで、ロンドンもバースもコッツウォルズも湖畔地方もストラッドフォード・アポン・エイボンも豪雨のヒースローも覚えていないというから潔い。

 食後に海沿いにドライブするとビートルズ専門店のようなショップがあったので、そこでレンタカーで聴くために青盤のカセット・テープを買い、ビートルズゆかりのスポットを示した地図をもらった。ペニーレインとストロベリー・フィールドに行くため、日本からもビートルズ大辞典とかいう本に載っていた地図をコピーしてきたのだが念のためである。


 念には念を入れるべきであった。この二つの地図は実にいい加減で、おそろしく時間を浪費した。私は5年近くアメリカで公私ともに地図だけを頼りに車で走り回っていたので、ロード・マップを読むのはお手の物だし今でも大好きだ。その私を迷わせた地図を当てにするのは止めて、適当に走っていたら偶然、ペニー・レインに出た。そう書いてある看板を見つけたのが僥倖であった。

 ただし、前日はこぬか雨降るリバプールだったのに、この日は大雨で傘も持っていなかったため、ペニー・レインは車で走り抜けるのが精いっぱいであった。小さくて綺麗な住宅が立ち並んでいたのを覚えている。ポール・マッカトニーによれば、郊外の青空の下、床屋さんや消防士や花売り娘がいるはずだったのだが天候ばかりは何ともしがたい。見つかっただけでも有り難かった。


 ところが、ストロベリー・フィールドは廃屋があるだけだから、さらに頑張っても見つからない。諦めると言った時、妻がせっかく来たんだからもっと探せと言った。これは長男を産み育てたことと並んで、彼女が私の人生に為した二大偉業とでも言うべき出来事であった。気を取り直して、また車を走らせることになった。

 まもなく広場のようなところで、雨の中、数十人が集まって何かやっている。大雨でよく見えなかったが、他に人通りもないので車を停め、その中で一番近くに居た人に道を訊くことにした。失礼と声をかけたとたんに、彼がテレビ・カメラを担いでいるのを見て、しまったと思った。テレビか映画かコマーシャルか、豪雨でなければならないシーンを豪雨の中で撮影していたのを邪魔してしまったのだ。


 相手の若者は少し離れたところにいる撮影仲間に「ちょっと待ってくれ」と叫んだ。手遅れである。ここまでやってしまった以上、しっかり世話にならなければ無礼である。お互い傘もなくずぶ濡れになりながら、私は「ストロベリー・フィールズに行く道を教えてほしい」と頼んだ。さすがは地元、これだけで通じた。

 彼もさすがに「Let me take you down」とまでは言ってくれなかったが、それでも公道まで出て「この道をあっちに進んで、幾つ目の角をどっちに曲がり」という感じで丁寧に教えてくれて、幸いそれほど遠くなかったこともあり、わがレンタカーは無事、ストロベリー・フィールドの前に着いた。


 今はどうなっているか知らないが、このときは敷地に背の高い雑草が生い茂っていて、その向こうに古びた建物が見えるだけ。入口の鉄扉には頑丈な鍵がかかっていて入れない。やむなく雨の中、「Strawberry Field」という小さな表札の写真を撮って帰途についた。

 前にも書いたような覚えがあるが、この直後にこの鉄扉は扉ごと盗まれるという災難に遭ったが、のちに無事、戻ったらしい。盗まれている間に行けば、中に入れたかもしれないな...。あのとき親切にしてくれたキャメラの兄ちゃん、本当にありがとう。眠たげなメロトロンのイントロで始まるあの曲を聴くたびに、私はわざわざ日本から来て撮影を止めてしまった間抜けな自分や、かつてジョン・レノンが遊んでいた施設のことを思い出す。


 映画「タイタニック」では船体に大きく「LIVERPOOL」と書かれていたのを覚えているが、タイタニック号はリバプールの会社に所属する船だった。リバプールは港町で、海の向こうにアイルランドのダブリンがある。このため、リバプールにはアイルランド系が少なくないそうで、「Lennon」という姓もアイリッシュらしい。彼はケルトの末裔であろうか。

 ダブリンと言えばジョイスの「ユリシーズ」だ。いつか読んでみたいが、なかなか手が出ない。この長編小説は1904年6月16日というたった一日に起きた出来事を描いているらしい。作品中の会話には、同じ年の2月に始まった日露戦争も話題に出てくるそうだ。これまた老後の楽しみに取っておくか。


 ボストンを旅行中、ローリング・ストーン誌を買って読んでいたらポール・マッカトニーのインタビュー記事が載っていた。いつもジョン・レノンのことを訊かれるのにいい加減うんざりしていたようで、俺たちはジョンの後ろでニコニコ演奏したバック・バンドじゃないと怒っている。それでも最後、「この俺はジョン・レノンの相棒だった男だ」と威張っていて可笑しい。

 私はジョン亡きあと、彼が愛妻ヨーコと暮らしていたダコタ・アパートをちょっと覗こうとしたところ、中から凄い形相をした警備員が小走りに近づいて来たのでセントラル・パーク方面に逃走した過去を持つ。今もそこで暮すヨーコさんと知り合いの先輩の話によれば、「このアパートの訪問客は、その都度、住民の了解を得ないと警備が通してくれない」というジョンの談話は本当のことだそうだ。


 その談話の続きが面白い。「ところがポールの奴は、いつも何だかんだと警備を説き伏せて、勝手に上がってきやがる」。情景が目に浮かぶようである。おそらく、この俺の顔、知っているか、この上のペントハウスに誰が住んでいるか知っているか、この二人が相棒だったことを知っているか、大事な用があるんだが通さないとどういうことになると思う?といった調子であったろう。こんなことで訴えられてクビになったらかなわん。

 これはもちろん、ビートルズが解散した後のエピソードである。レノン=マッカトニーは二度とふたたび一緒にステージに立つこともなく、一緒に曲作りもしなかったが、別に犬猿の仲のまま口もきかなかったわけではない。解散後のジョンの歌にはポールを非難したり皮肉ったりしているものが多いが、多分あれは商売である。転んでもタダでは起きない連中なのだから。



(この稿おわり)



近所の梅。ここにマンションが建つ。見納めか。
(2013年3月16日撮影)





 There beneath the blue suburban skies in summer meanwhile back.

                 ”Penny Lane”














































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