重松清さんは三歳年下ですが、お互いこれくらいの歳になれば同年代とお呼びしても差し支えあるまい。重松作品は短編や中編が好きで、映画化されて永作が熱演した「その日のまえに」が記憶に新しい。オムニバス形式になっており、「ヒア・カムズ・ザ・サン」が良いな。息子とビートルズの曲名が掛詞になっている。
長編ではとくに「疾走」が印象に残っている。何とも哀しい物語だが、主人公の少年に負けず劣らず、運命に翻弄される兄貴の人生が切ない。こちらも映画になって、豊川悦司が神父さんを好演している。彼を初めて観たのは「居酒屋ゆうれい」の怪しげな役。最近ではお江相手に信長の幽霊。怪談が多いな。
最後に観たときはオッチョを演っていた。凶暴さと繊細さを兼ね備えた男だから難しい役だ。映画の感想文は先の楽しみにとっておいて、ここでは「疾走」に戻ろう。この小説に「赤犬」という言葉が出てくる。放火魔のことだ。幸い私は近所に放火があったという経験がないが、連続して放火が起きたら近隣の住民はさぞさし不安だろう。
以前、性犯罪は経済学的ではないと論じたが、私にだって性欲も食欲も怒りの衝動もあるから、性犯罪や窃盗や傷害の罪を犯す者の心情が全く分からないとは言わない。第19集後半のテーマの一つは「悪」だが、私の中にも確実に悪がある。今のところ前科者になったことがないのは、運良く自制心が限界を超えるような目に遭ったことがないからにすぎない。
しかし放火は全く理解できない。憂さ晴らしなのか? 確かに火というものは何故かとても幻想的であり、荘厳である。だからといって、よそ様の大事な住まいに火を放つという発想にどうやってたどり着くのだろうか...。これが分からないようでは私の悪も長髪の人殺しと同様、ケンジに鼻で笑われる程度のちっぽけなものなのだろう。
名曲ミリオンのコード進行を一刻も早くギターで音にしようとしていたケンジだが、まことに間の悪いことに、すぐ目の前にあるゴミの集積所らしきところで、どうやら火をつけようとしている者の後ろ姿を見てしまった。ケンジは、騒いで俺に火をつけられたらどうしようと、なかなかユニークな心配をしているが、とにかく一大事である。
ケンジが選んだ作戦は、自分は放火に気づいていないふりをしつつ、相手に気付かせるというもので、その手段は将来の彼の得意技となる路上の即興ライブであった。見ごと成功して悪党を追い払ったものの、嫌な予感も当たってミリオンのコード進行をもう忘れてしまった。このことが無かったら、ケンジのバンドは名曲を引っさげて世に出たかもしれぬ。正義の味方になる覚悟と副作用も大変なのだ。
ちなみに、この場面で描かれている放火魔らしき男の太った丸顔は、先日逮捕されたパソコンの遠隔操作犯の容疑者と少し似ている。犯行を否認しているようなので犯人扱いする訳にはいかないが、先入観というのは恐ろしいものだ。一目見た程度で類型に当てはめてしまう。秋葉原もこんな若いのばっかりだよなと瞬時に思ってしまう。
第一印象が何より大切という信仰があるが、ど近眼で相手の目を直視するのが苦手の私は信じていない。心理学の勉強をした人ならご存じの「メラビアンの法則」も重視していない。
この法則は対話の際の情報伝達経路の利用割合が、見た目すなわち視覚55%、話し方すなわち聴覚38%、話の中身すなわち言語情報がわずか7%というものだが、こういうものを有難く信奉するほどおめでたくはない。数字の覚え方はゴーゴー・サバンナ。さて、路上のケンジは背後から「すごいや」と声をかけられて振り向いている。
(この稿おわり)
浅草の朝焼け (2013年2月16日)
.