おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

ボーノ (20世紀少年 第448回)

 私のカリフォルニア駐在は、ちょうど日本でバブル景気があった時代で、ロサンゼルスとサンフランシスコにそれぞれ2年余りの滞在でした。この週末、当時すでにその名を知っていた方が二人亡くなった。両方ともスコットさんで、一人は映画監督のトニー・スコット。奇才リドリーの弟さん。

 彼が監督した映画「トップガン」は海軍の訓練校で、カリフォルニア南部の風光明媚な港湾都市、サンディエゴにある。トップガンを観たくて、わざわざロサンゼルスから車を飛ばしたのだが、当日は日曜日で訓練は休み...。もっとも、私の落胆ぶりを知ってか知らずか、二三機が離着陸を見せてくれたので満足して帰ってきた。

 もう一人は、なぜか中学生のころから知っている「花のサンフランシスコ」という曲を唄ったスコット・マッケンジー。なんの変哲もない歌であるが、ヒッピーと聞けばこの曲を思い出すほど、いかにも、いかにもという感じの歌詞である。今も、ときどき聴いています。当時の拙宅は丘の上にあり、光あふれるベイ・エリアを見下ろすことができた。お二人のご冥福をお祈りします。合掌。



 蝶野刑事はラーメンをいただきつつ、「ボーノ、ボーノ」と言いながら左手を頬の前でぐるぐる回す仕草をしている。一般に英語の「good」と同じ意味であるボーノは、このジェスチュアを付け加えながら言う場合、美味しいという意味になるだそうだ。コイズミ風に表現すれば、グルグルうずまき。

 ラーメンのびるよと言いながら、ひとり暢気に食事中の刑事相手に、ひたすらルチアーノ神父は同じ言葉を繰り返す。刑事はようやく「papa」を聴き取って、辞書で調べた結果、「法王」であった。しかしまだ、去年の一連の騒動を思い出せない様子である。神父はやや強行な手段に出た。押収品の中から、許可なくロザリオを持ち出したのである。

 
 小さな十字架がついている。「ヘビメタのアクセサリーじゃ...」と刑事は言った。言葉が通じなくて幸いであった。意味が通じていたら、チョーチョは何人目かの病院送りになったかもしれない。神父はロザリオを右手に持ち、大きく胸の前で十字を切った。そして左手に先ほど投げ捨てられた本を持ち、その内容を一部、暗唱し始めた。

 ここまで材料がそろって、ようやく刑事も気が付いた。聖書。神父。十字架。ルチアーノ神父も相手が気付いたことを知った。ようやく、意思疎通ができたのである。さらに神父は辞書を引ったくるようにして、「暗殺」という言葉を刑事に示した。法王の暗殺。ようやくブリトニーさんが遺したメッセージが蘇ったのだ。

 刑事は日本語でこう言った。俺は「仲間」だ。ここから連れ出す。会わせたい人がいる。これらは全て神父に通じたらしい。ついては、ラーメンを食えとも言った。これも通じた。スープは「〇龍」の師匠直伝のもので、2000年の血の大みそかや歌舞伎町抗争も何のその、7番弟子が守りきったものだ。「ボーノ、ボーノ」と言いながら神父が流した涙は、安堵か感謝か、それほどまでに旨かったか。

 
 ところで、このシーンに出てくる神父ご持参の聖書は、どの絵を見ても、表裏の表紙にも背表紙にも何の文字も書かれていない。聖職者が使う聖書には、バイブルという題名は不要なのだろうか。お経と違って、新旧併せれば一冊だもんなあ。ペリン神父が探し出した悪魔の予言書も、同様にタイトルがなかったが、これをマネしたものか。

 ついでに、わが「古事記」は原本が残っていないが、さらに、そもそも書名が古事記だった証拠すらないと聞いた。古事記が世に知られたのは、ようやく南北朝のころらしいし、奈良時代古事記の直後に完成したはずの正史「日本書紀」にすら古事記に関する記載は皆無であるという。

 となると本来、古事記天皇家ほか、ごく一部以外、その存在は隠されていたのであり、門外不出の書物だったのかもしれない。だとしたら、原本はこっそりどこかに残っているかもしれない。皇室と正倉院が黙っていたら分からないと思います。大事にしまっておいてください。


 ついでに、55ページ目でルチアーノ神父が暗唱している部分は、「Matteo」と出てくるから「マタイによる福音書」であろうか。それに続く文章をそのままコピーしてネットで検索すると、何とも便利な世の中、イタリア語の聖書のサイトがちゃんと出てくる。マタイ伝第13章第1節。もちろん読めないので、以下は手元の日本語訳の聖書による。

 該当部分は「その日、イエスは家を出て、海べにすわっておられた」とある。きっと彼は海の近くに住んでいたのだ。どうりで当初のお弟子さんたちには、漁師が多かったわけである。第13章は、旧約聖書に出てくる預言者イザヤによる預言を、イエスが例え話をもって民衆に説明する場面である。


 わざわざ彼が預言を例え話に変えた理由について、「これは預言者によって言われたことが、成就するためである」と第34節にあるが、これは「よげんの書」や「しんよげんの書」を自作自演するのとは意味が違い、あくまで旧約時代の預言者の言葉を、分かりやすく人々に伝道するためだという意味である(と思う)。

 しかし人々は、イエスが大工の子だなどと言って真面目に取り合わなかったらしい。だが、イエスはこう言われたそうだ。「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。家族やご近所には理解されないが、世の中は必ずや預言者を尊敬するのだということか。


 この点に限って言えば、”ともだち”の言い分も似ていなくもないかな。こういう美味しいところばかりをかき集めて、陳腐な予言書を作り上げたに違いない。あまりに聖書を引き合いに出して神の怒りに触れても困るので、ほどほどにしておきます。

 このあと蝶野刑事は、手錠もかけずに独断で神父を連れ出した模様。事情が事情とはいえ、警察官でありながら、明らかに違法行為であろう。




(この稿おわり)




(上)ハタタテダイ。 (下)ウミガメの息継ぎ場面。







If you're going to San Francisco,
be sure to ware some flowers in your hair.
If you're going to San Francisco,
you're gonna meet some gentle people there.


"San Francisco" by Scott McKenzie



サンフランシスコに行くのなら
髪に花飾りをお忘れなく
サンフランシスコに行けば
心優しい人たちがあなたを待っている