おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

聖霊とともに (20世紀少年 第366回)

 6月に入りました。今日は理屈っぽい脱線です。キリスト教を誹謗中傷するつもりは全くないけれど、念のため信者のかたは、ご不快な思いをされるかもしれないので、お読みにならないでください。第13巻の43ページ目から、”ともだち”の死を悼んで、国連が半旗を掲げ、続いて各国の王室が弔意を表したり国民が嘆いたり中国政府が沈黙したりする様子を伝える報道の断片が描かれている。

 モンちゃんが入手した”しんよげんの書”のコピーによれば、「ばんぱく」に続いて「せかいだいとうりょう」が誕生することになっている。「世界大統領」のことであろうか。”ともだち”が世界大統領になるという予言はないのだが、”ともだち”は、そのつもりでいるらしい。


 子供のころは、首相と大統領の違いとは何かという立派な疑問を抱いていたものだが、今ではもう、どうでも良くなってしまった。いずれも、同じ呼び方であっても国によって責任や権限が違うことだけは、うすうす分かってきた。日本には内閣総理大臣しかいないし、アメリカには大統領しかいないし、ヨーロッパの幾つかの国には首相と大統領の両方がいて、どっちが偉いのか分からない国もあることも知った。

 どうやらはっきり言えそうなのは、原則として王様のいない国すなわち共和国では、大統領が一番、偉い人であるらしい。国家元首とも呼ばれるらしい。大統領を超える権威権力を持つ個人はいないらしい。これらの理解が正しいのであれば、世界大統領は、世界各国の誰より何よりも偉大な人物と、世界中から認められなければ、そういう地位には就けまい。


 そこまでいくために、当面、厄介なのは現存するパワー、国連や大宗教や各国の王様の存在であろう。世界大統領の選挙の手続きは、のちに出てくるのでそこで触れるとして、金や選挙とは関係なしに権威を持つのが宗教や王権といった、精神的な何かに支えられた力の持ち主である。

 高校の歴史で習った西洋の教皇権と世俗権力の戦いとか、太平記に出てくるような皇室と武家の争いなどは、最終的には武力や策謀といった強引な方法で解決するほかないほど根が深い権力闘争であったようだ。”ともだち”は、この難問を解決するにあたり、21世紀初頭においては、まだまだ世界最大の支配者階級である白人社会の精神的シンボルのようにみえるカトリック教会を抱き込むという策略を思いついたらしい。


 その詳細はこれから折に触れてみていくとして、この段階では、初めて登場するローマ法王は、血の大みそかの惨劇と救出劇の両方が、”ともだち”の自作自演であったとは夢にも疑ってみえない様子であり、その死を弔うべく、ヴァチカンでミサが行われている。

 法王様いわく、「彼は今、聖霊とともにあります。彼の肉体はほろんでも、彼は私たちと、ともにあるのです。神は彼を、こう名付けました。”ともだち”と...」。ちなみに、”ともだち”と名乗ったのは本人自身のはずなのだが、まあ良い。異国の神様にも事後承諾されたみたい。


 ところで、私はこの「聖霊」というものが何なのか、さっぱり分からない。歴史の授業では、神とイエス・キリスト聖霊は「三位一体」であると、キリスト教徒の多くは信じていると習った。三位一体も分からない。

 「一体」という言葉は、分かちがたい、同一のというような意味で、本来はお互い別のもの(あるいは、別々になり得るもの)が一つになった様子ということだろう。神とイエスがそうだというなら、如来と釈迦もそうかもしれないので、なんとなくわかったような気分になる。でも、聖霊って何だ。


 広辞苑(第六版)の言い分を聞こう。せい・れい【聖霊】とは、「キリスト教で、三位一体(父・子・聖霊)の第三の位格。教会の誕生、キリストの働きの継続、カリスマ的な活動、人類の一致の鼓吹力となるもの。助け主。慰め主」。ほとんど、説明の放棄と言ってよかろう。

 ある哲学者の話の中で、聖霊とは「イエス・キリストがこの世にいたころの残滓みたいなもの」というような表現があったのを覚えている。今なお、その影響が残っているということか。このほうがまだ、しっくりくる。だが、新約聖書はその初っぱなのマタイ傳福音書において、マリアは聖霊により身ごもったと明記している。これでは話の順序が逆ではないか?


 梅原猛さんによれば、信じられないものを信じること、すなわち神秘主義こそが宗教に不可欠の要素であると、どこかで書いておられた。鈴木大拙は、その代表的著書、「日本的霊性」において、「キリスト教神学者に、『背理だから、私は信ずる』と言ったものがあるが、その通りである」と言っている。

 これほどの人たちに、こう諭されては黙るほかあるまい。ちなみに、鈴木大拙が引用した言葉は、中丸明「絵画で読む聖書」によると、こういう表現になる。「このきわめつけの不条理、無理無体について、カルタゴ生まれの神学者テルトゥリアヌスは、キリスト教の信仰について、『不可能であるがゆえに真実である』と、サジを投げたように語っている」と書いている。

 
 天井からぶら下がっただけの”ともだち”であっても、神秘を求めてやまない主義者にとっては鰯の頭も信心から、フクベエの言うとおり、信じたいから信じるのであって、他者の手には負えない。その程度の有り難さで済んでいる間はよいが、法王に「聖霊とともにある」と祝福されては、もはや聖人ではないか? あとは、「一度死んで復活」すれば四位一体になるだろう。

 「大統領」兼「神様」になれば、政教分離もなんのその、やりたい放題、世界征服というのが、「しんよげんの書」の発想であるらしい。だが、世の中はキリスト教徒ばかりではないから、虎の威を借りようにも限界がある。そして、それより先に、”ともだち”一味は、まやかしのリーダーを失って、ゆっくりと内部崩壊を始めた。



(この稿おわり)



ゼンマイと麦わら帽子のある風景(2012年4月30日撮影)