おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

クラス会のコイズミ     (20世紀少年 第3回)

 
 このカテゴリーは、基本的に漫画の進行に合わせて、第1巻第1章から順次、書き進める。しかしながら、もしもこのブログをお読みいただく有難い方がいらっしゃるとしたら、いきなり冒頭から私の感慨だの昔話だのを、延々と書き連ねてお目にかけるというのも、若干、心苦しい。

 そこで、最初だけは例外的に、第1稿「はじめに」の分類によれば「2)の謎解きや宝探し」に当たるところから始めることにした。私なりに、どのように本作を楽しんだかをご披露したい。ただし、この第3回と次の第4回は、結論らしい結論はないです。


 第3巻第5話「クラスメート」は、仔細あってユキジが企画し、ケンヂが招集したクラス会の模様が描かれている。フクベエの登場場面でもあり、物語が急展開する重要な出来事である。

 その席上、93ページ目で、ケンヂは参加者の顔ぶれを眺めながら、「顔を見ても、ちっとも思い出せない奴が何人もいる」と心中つぶやいている。私も小学校や高校の同級会で、同じような経験を何度かしているので良く分かる。

 もっとも、最初に描かれる3人は、ケンヂも名前を思い出しており、学級委員長のグッチィ、医者の息子のノブオ、いつも腹をこわしていたコイズミは、「ひと目見て名前の浮かぶ奴」として紹介されている。私はこの箇所を、最初から3回目までの読書では読み飛ばしたが、4回目でつまづいた。


 第6巻173ページ、海ほたる刑務所からの脱獄を図る際、オッチョは「これまで俺の人生に偶然はなかった」と漫画家の角田氏に語っているが、この作品全体においても登場人物たちの人間関係や、事件・事故の因果関係は、遠い過去にまでさかのぼって複雑かつ密接に絡み合っており、「偶然はない」世界であるかのようだ。

 そう思うのであれば、このクラス会の宴席に出て来る同級生の「相変わらず内臓が弱そうなコイズミ」は、後段で、さっそうと登場する21世紀少女コイズミこと小泉響子とは無関係だろう、と軽く読み流してよいものではなかろう。


 などと啖呵を切って調べてみれば、どうやら関係なさそうだ。少なくとも、同級生コイズミが少年時代に重要な役割を果たしたとか、小泉響子の親類縁者であるかのような記載はない。とはいえ、せっかく検討したのだから、報告だけでもしておこう。

 響子の父親は、第10巻の69ページから70ページにかけて、幾つかのコマに登場する。第3巻の同級生コイズミと比べて、面長、メガネ、口元などは似ているが、眉毛が違うし、何より同級生コイズミは内臓が悪くてクラス会でさえ酒を断っている様子なのに、響子の父は実に美味しそうにビールをいただいている。この二人が同一人物だと断定するのは乱暴すぎよう。

 もっとも、響子はカンナと同学年だから、彼女たちの親もお互い同年代だろうとの推測はできる。実際、第8巻第11話でボーナス・ステージに送りこまれた響子は、小学生のケンヂたちに振りまわされた挙句、「前世紀の子供って、つき合いづらいわ」とぼやきつつ、「でも、あの子供達はあたしの親世代ってことよね」と思い至っている。

 結局、作品中において「実際にあった過去」の描写においても、あるいは、バーチャル・リアリティーの中においても、響子の父親の子供時代らしき少年の姿は無さそうだし、その活躍の場面もおそらく全くない。では、この話題はこれで終わりにしてよいものか。

 クラス会のコイズミと、小泉響子の父娘との間の関係・無関係は横に措くとしても、クラス会におけるケンヂの心象風景の描写などは、考えようによっては意味深長なものだ。長くなったので次稿に続く。


(この稿おわり)

クラス会のよく似た二人     (20世紀少年 第4回)

 
 前稿に引き続き、第3巻のクラス会について。ケンヂは心中で、グッチィやノブオやコイズミは、「ひと目見て名前の浮かぶ奴」と思っているのだが、しかし本当に彼らなのかどうか、読者には分からない。

 クラス会が終わった後で、マルオが、自己紹介ぐらいすべきだったと、第3巻122ページで述べているくらいだから、彼ら自身もお互いが誰であるのか確認することなく、酔っ払ってそのまま解散してしまったのだろう。もしかしたら、本物のコイズミが他に居たかもしれない。そちらが、響子の父かもしれない。


 しかし、それより重要なのは、フクベエの登場の仕方であろう。彼は自ら名乗っていない。一対一で顔を突き合わせたケンヂが、ようやく思い至って「フクベエ?」と声をかけ、その男が「やめろよ、その呼び方、いい年をして」と応じているだけである。読者はこのまま彼をフクベエと信じて疑うことなく、2000年の血の大みそかや、2015年元日の理科室の惨劇を迎えることになる。

 クラス会から血の大みそかまで「フクベエ」と言われた男が同一人物であることに疑いはないとしても、他方で、彼がキリコの夫のフクベエであったという確証はないと思う。


 2015年において、ともだちは別人と入れ替わる(と私は解釈している)のだが、ともだちがキリコの夫でカンナの実父であったフクベエなのか、それとも偽物なのかを瞬時に見分ける能力があったのは、肉親たるキリコとカンナだけのようだ。

 そして、「クラス会から血の大みそかまでのフクベエ」は、地下潜伏中のキリコや幼な子のカンナと会った形跡がない。クラス会でケンヂ相手に本人が否定しなかったという根拠だけで、彼はフクベエとして認知され行動し続ける。この設定のややこしさについては、ここで論じ切れるものではないので問題を先送りにする。


 本稿で私が押さえておきたい事柄は別にある。第3巻93ページの中段から下段にかけて、ケンヂは、少し離れて同席者を囲んで飲んでいるマルオとヨシツネに対して、「おまえら、そいつが誰だか、わかってしゃべってんのか?」と、胸の中で語りかけている。

 展開がとても自然なので、これもこのまま読み流しやすい箇所なのだが、このヨシツネとマルオに挟まれて談笑している「そいつ」は、最後まで誰か分からずに終わるが、少しフクベエと似てはいないか。


 角度を変えて見てみましょう。同巻108ページの中段、「そいつ」とフクベエは、おそらく作者は意識的に並べて描いていると思うのだが、結構、顔付きや髪形がお互い似ている。

 私は(そしておそらく多くの読者も)、フクベエと良く似た顔の男が、二人目のともだちになったのではないかという疑念を抱いているので、この「顔面相似形」は不気味である。

 そういう先入観たっぷりの頭で読み返してみると、上記93ページの「そいつが誰だか分かっているのか」というケンヂの問いかけも、108頁のマルオの「誰だよ」という言葉も、何かを暗示しているようにも思えるから不思議なものだ。この良く似た二人が、妙にクールで浮いたままなのも印象的である。


 この疑問もこれ以上、追求することなく、取りあえず先送りする。あとで解決できるという自信もないが、ここで拙文は原則に立ち返り、物語の冒頭に戻るので、クラス会については後ほどまた触れるということで、一旦、中断します。気まぐれで恐縮です。


(この稿おわり)


わが家から見た梅雨空と、建設途中の東京スカイツリー (2011年5月30日撮影)