前稿に引き続き、第3巻のクラス会について。ケンヂは心中で、グッチィやノブオやコイズミは、「ひと目見て名前の浮かぶ奴」と思っているのだが、しかし本当に彼らなのかどうか、読者には分からない。
クラス会が終わった後で、マルオが、自己紹介ぐらいすべきだったと、第3巻122ページで述べているくらいだから、彼ら自身もお互いが誰であるのか確認することなく、酔っ払ってそのまま解散してしまったのだろう。もしかしたら、本物のコイズミが他に居たかもしれない。そちらが、響子の父かもしれない。
しかし、それより重要なのは、フクベエの登場の仕方であろう。彼は自ら名乗っていない。一対一で顔を突き合わせたケンヂが、ようやく思い至って「フクベエ?」と声をかけ、その男が「やめろよ、その呼び方、いい年をして」と応じているだけである。読者はこのまま彼をフクベエと信じて疑うことなく、2000年の血の大みそかや、2015年元日の理科室の惨劇を迎えることになる。
クラス会から血の大みそかまで「フクベエ」と言われた男が同一人物であることに疑いはないとしても、他方で、彼がキリコの夫のフクベエであったという確証はないと思う。
2015年において、ともだちは別人と入れ替わる(と私は解釈している)のだが、ともだちがキリコの夫でカンナの実父であったフクベエなのか、それとも偽物なのかを瞬時に見分ける能力があったのは、肉親たるキリコとカンナだけのようだ。
そして、「クラス会から血の大みそかまでのフクベエ」は、地下潜伏中のキリコや幼な子のカンナと会った形跡がない。クラス会でケンヂ相手に本人が否定しなかったという根拠だけで、彼はフクベエとして認知され行動し続ける。この設定のややこしさについては、ここで論じ切れるものではないので問題を先送りにする。
本稿で私が押さえておきたい事柄は別にある。第3巻93ページの中段から下段にかけて、ケンヂは、少し離れて同席者を囲んで飲んでいるマルオとヨシツネに対して、「おまえら、そいつが誰だか、わかってしゃべってんのか?」と、胸の中で語りかけている。
展開がとても自然なので、これもこのまま読み流しやすい箇所なのだが、このヨシツネとマルオに挟まれて談笑している「そいつ」は、最後まで誰か分からずに終わるが、少しフクベエと似てはいないか。
角度を変えて見てみましょう。同巻108ページの中段、「そいつ」とフクベエは、おそらく作者は意識的に並べて描いていると思うのだが、結構、顔付きや髪形がお互い似ている。
私は(そしておそらく多くの読者も)、フクベエと良く似た顔の男が、二人目のともだちになったのではないかという疑念を抱いているので、この「顔面相似形」は不気味である。
そういう先入観たっぷりの頭で読み返してみると、上記93ページの「そいつが誰だか分かっているのか」というケンヂの問いかけも、108頁のマルオの「誰だよ」という言葉も、何かを暗示しているようにも思えるから不思議なものだ。この良く似た二人が、妙にクールで浮いたままなのも印象的である。
この疑問もこれ以上、追求することなく、取りあえず先送りする。あとで解決できるという自信もないが、ここで拙文は原則に立ち返り、物語の冒頭に戻るので、クラス会については後ほどまた触れるということで、一旦、中断します。気まぐれで恐縮です。
(この稿おわり)
わが家から見た梅雨空と、建設途中の東京スカイツリー (2011年5月30日撮影)